2020年2月11日火曜日

E&A Milonga Sp. Megumi's Memorial

夫が亡くなって2年が過ぎた。
仏教でいえば三回忌というやつだけど、私たちはクリスチャンなのでそういうのは、ない。とはいえ、この日に思いを寄せてくれる友人もあるし、私自身、去年同様ミロンガをやりたいなと思い、去年参加が叶わなかった夫のもう一組の師匠であるEugene & Alisaのお二人に話を持っていったら、二つ返事で受けてくださった。日曜夜のE&A Milongaをスペシャルバージョンにしての開催。福岡からTrio Los Fandangosを呼び、E&Aとそのアシスタント時代から親しくしてもらっているMarcy&Magi、そしてKenji&Liliana師匠にデモをお願いした。

TLFのライブ・タイムは、タンゴ3、ワルツ1、ミロンガ1の5タンダ=五反田!
また一段階ヴァージョンアップした、みっちり音の詰まった演奏にみんなノリノリで、オートラ2曲。来るたびにいい曲をどんどんレパートリーに取り入れて、DJ泣かせのTLFだけど、前後のDJタイムもさすがEugeneさん、見事な仕切りだった。なおかつ踊ってたり動画撮ってたり、すごいな~。

後半のショータイム。始めに私からE&AやMarcyさん、そしてMCのセバスチャンには夫がずっとお世話になっていたこと、残念ながら昨年亡くなられた齋藤徹さんが私たちとTLFを繋ぎ、そこでケンリリさんとも出会ったこと、TLFやケンリリさんがブエノスに行くとき連れて行ってもらっているうさこは病床の夫の身代わりであったこと、などをお話しした。うさこ、こないだケンリリさんとブエノス行ったばかりだけど、また行きたいというのでTLFと今年一緒に行けるようにTLFのCDが売れて旅費が稼げるといいなあ。
  



デモはMarcy&MagiがRecuerdo、E&AがEl Dia Que Me Quieras、そしてケンリリさんがQue Falta Que Me Haces(別名「おらーん」笑)と、まあよく考えて下さっていてそれだけで胸が詰まる。そして3組ロンダの中に私もとしゆき先生と混ぜて頂いてDon Juanを。これは私たちとTLFの出会いの曲だったのでここに持ってきたのだけど、しんみりしたところにこれぞTLFらしい演奏のこの曲を持ってきたのは正解だったと思う。最後はセバスチャンのパーカッションを加えたAzabacheを3組で。
長めのショータイムになったけれど、みんな楽しんでくれたようで、最後にEugeneさんがオルケスタYOKOHAMAのLa Cumparsitaをかけるまで、フロアは賑わっていた。

  

以前他のレッスンで顔を合わせたものの自己紹介に至っていなかった方が「きょうはありがとう」と言いに来てくださったり、テーブルに置いた夫の写真に挨拶しに来て下さる方があったり、温かい雰囲気の中でミロンガができてほっとした。
夫が亡くなってからひとりでミロンガに行くと、「不在」がむしろ強く感じられる(「おらーん」)ことが多かったのだけど、この日はフロアのどこかで誰かと踊っている気がして、私も穏やかな心持で過ごすことができた。徹さんも、TLFと一緒に弾いていた気がした。

タンゴがなければ出会わなかったかもしれない人たちが、タンゴのおかげで奇跡的に一堂に会するミロンガ。誰と何曲踊ったとか、DJがどうだったとか言う前に、その出会いとつながりを喜ぶ機会であって欲しいと思うし、このミロンガがそんな一つであればよかったと思う。

この日のことを書いたケンジさんのブログはこちら

2020年1月28日火曜日

裏切らないもの


1月26日は所属しているオーケストラの年に1度のコンサートだった。
夫が病気になって私がお休みしてから始まったコンサートだったので、
参加するのは去年復帰してから今年で2回目。
普段自分だけでへらへらとやりたい曲をレッスンしているのと違い、
みんなに迷惑をかけないようにしなければいけない。
しかし40過ぎて始めた者ゆえの限界と、学生のように練習時間はとれない
という状況の折り合いをつけながら混ぜてもらっている。

今回の曲は、
ドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」
チャイコフスキー「組曲 くるみ割り人形」
ブラームス「交響曲第2番」
と、「名曲コンサート」と銘打つだけのことはあるラインナップ。

日頃タンゴのようにビート感、グルーヴ感に満ちた音楽に浸ってばかりいるものだから、
ドビュッシーはすごく難しかった。
カウントに確信が持てたのはようやく本番でのことだったという。。。汗

チャイコフスキーは耳慣れている割に、構成が全然わかっていなかったことに気づき、
練習のたびに発見があったり、うまくいかないところを自分なりに工夫して練習した結果課題が解決できたりして、面白かった。曲の理解の助けになるかと、年末にはキエフ・バレエの公演も見に行ったし、本番はそのイメージを思い浮かべながら楽しんで弾いた。

ブラームスは集中力を試されてる感じで、どうなることかと思ったけれど、なんとか振り落とされずに最後まで行けてよかった。45分の曲の半分が1楽章ってどういうつもりなんだろう。。。勉強のために何度もCDを聞いたけど、いつも「まだやってるよ」と気持ちが途切れていたくらい。お客さんも疲れたんじゃなかろうか。

アンコールにはバレエの「くるみ割り人形」から「パ・ド・ドゥ」を。
単純なスケールをドラマチックに作り上げた名曲を、わーっと広がりすぎずに重厚にというのはなかなか難しかったけど、本番の出来はチェロ、ブラスのがんばりでよかったと思う。

去年は、本番ひと月前くらいの時点で、残された時間を
「弾けないところが弾けるようになるまで最後まで頑張ってみる」

「弾けないところは大事な音だけ抜き出して弾く練習をしておく」
か、で迷って、結局なんだかどっちつかずになって、
弾けたところもあれば落ちたところもある、みたいな結果になってしまった。

今年は早い段階からそれを避けるべく、弾けないところをまず重点的に練習していくことにした。音がつかめていなくて弾けないところは、まず口で言えるようにして(口で言えないものは弾けない)言いながら弾く、とか、弓がいい場所に持っていけない、左手のフィンガリングがうまくいかない、といったケースは、その前の動きを変えて修正する、などしてみた。苦労していたことが、ちょっとした工夫であっさり解決したこともあったり、これはなかなか面白かった。(もう何年もレッスンしてる割に、いまごろ?)

そして思うのは
練習は裏切らない
ということだ。
弾けないところをやみくもに何度もやっていると、それは弾けない練習になってしまい、
どこまで行っても弾けない、という意味でもあるのだけど、
ちゃんとした練習はちゃんと結果につながっている。
弾けるところまでやったつもりで本番では弾ききれなかった部分もあるけど、それでもただ落ちたりせず大事な音は弾けていて、あれだけやった意味はあったのだ、と思えた。

反省すべきは、アンサンブルへの意識が足りなかったことだ。
曲全体に対する理解を深める努力をもう少しするべきだったと思う。
今回は特にハープなど特別な楽器が入る楽曲もあり、そういうパートも含め全員そろっての練習機会は少なかったので、リハーサルの中だけでやりとりを体得していくには無理があった。スペースの都合で座る場所が変わると聞こえ方も全然違ってしまうし、もう少し自分で勉強しておくべきだったと思う。
次回への課題として、忘れないようにここに書いておくことにする。

なんにせよ、寒い中ご来場くださったみなさん、ありがとうございました。

3月には放送記念日の式典前座で、「葦笛の踊り」と「パ・ド・ドゥ」をやるらしい。
この2曲には、自分なりの課題解決に至らなかった箇所があるので、リベンジしたいものだ。

2020年1月16日木曜日

つれづれ

気が付けば年が明けて半月余り。
今月は26日にオケのコンサートがあるので、とにかく体調管理に万全を期すべく(実力は俄かにどうなるものでもないので)休養を取る、人込みには出ない、人と接触するミロンガにはもちろん行かない、で過ごしている。そういう時に限って楽しそうな企画が次々とSNS上に紹介されていて、ちょっと悔しい。

そして気が付けば、2020年ということは21世紀が五分の一過ぎた、ということだ。
20世紀後半に子どもから大人へと生きた身としては、あのころ「21世紀」という言葉が持っていた希望と期待とは、現実はかなり違っていると感じて悲しい。
よく言われるように20世紀は「戦争の世紀」だった。二つの世界大戦がそれを象徴している。東アジア地域ではその後も朝鮮戦争やベトナム戦争が繰り広げられ、21世紀は戦争のない世紀に、との思いを多くの人が持った。

しかしどうだろう。21世紀を五分の一過ぎた世界は地域間、経済圏間、世代間といったさまざまな局面での「紛争」に満ち満ちているのではないか。地域紛争は、その地域の人々にとってはまさに戦争だ。自分たちの頭の上に銃弾が降ってこないからと言っても、食物や生活の安全が密かに脅かされる結果をもたらす経済圏同士のせめぎあいも、やはり戦争なのだ。

そうなることは、わかっていたのだ。
「これが時代の分かれ目とでも言える契機になるのだろうな」と感じたことがあった。
1989年の年末、米ソ マルタ会談。
この時、夜帰宅したらテレビにパパ・ブッシュとゴルビーが並んで笑顔で会見するようすが映っていて本当にびっくりした。それまでの米ソサミットでは両首脳が一緒に会見するなどありえなかったからだ。
そしてこの時「冷戦の終結」が宣言され、ブッシュはこれからは「New World Order」だ、と語った。

New World Order 新しい世界秩序。
一体それは何なのか。おそらくアメリカは冷戦の終結とは(アメリカ的)民主主義が社会主義に勝利したことだと思いながらも、それは大っぴらに言いたいことではなく、そのために具体的にNew World Orderが何なのかを示すことなく、時が流れていった。すでに始まっていた東欧の「民主化」を見ればわかるように、彼らは別に「アメリカ化」したわけではなかった。しかし彼らは欧州の一部でありその価値観を共有していたから、アメリカの楽観が問題になることはあまりなかったと思う。

問題は、冷戦構造の重しが取れたことで、それまで抑えられていた対立や鬱屈が噴出することが予想された中東やアジアだった。新しい秩序とは何かが提示されない中で、政権の転覆、地域紛争が相次ぎ、アメリカを標的とした同時多発テロも起きた。このテロに対するアメリカの答えは「軍隊の派遣」だった。武力による紛争の解決、それは日本が憲法で永久に放棄すると謳っていることだが、日本はそのことを強く世界に訴えることをせず、アメリカの腰巾着のような振る舞いを今日まで続けている。故中村哲医師のようなごく限られた人々が、命がけで自分にできることをしてくれているだけだ。

21世紀、のちに何の世紀と言われるようになるか、私はそれを見届けることは、ない。
その先の世界が存在するのかどうかがそもそも危ういとは感じるけれど。
世界の秩序、などとマクロな話を書いてしまったけれど、もっと身近なところでも暮らしや社会の崩壊は進んでいる。ネット上で見ず知らずの相手にいきなり侮蔑の言葉を投げつける人々、意味もなくこまごまと定められた学校や職場のルール、気候変動に対処しきれない人間の知恵、などを思うと、かつて「Information Super Highway」を提唱し、映画「不都合な真実」を作ったアル・ゴアというのは、なかなか先見の明があったのだな、と思う。そういう人を指導者にできないで、今現在の自己防衛ばかり考えていては世の中よくなるはずがない。さて、どうするか。

2019年12月31日火曜日

At year's end 年末に

(日本語は下に)

It's time to look back 2019.
I continue to hold a void in the center of my heart that I know will never be filled.
I'm still searching ways to live with it although I'm doing better with it than last year.  This year, my eyes turned more to things around me, and I notice the world is changing.  Places we went together are no longer there, new buildings are being erected here and there, new technologies are available, and everyone appears to be keeping in pace.  I feel as if I remain collapsed on the roadside, looking at the back of my friends who are moving forward, fast. 

Some of the expressions that came from people who had the same experience of losing their spouse caught my attention as I heard them on the radio or on TV this past year.

One said, "you should not forget but it's OK to try not to recall."
Another said, " there's no long hope or dream for me/ I don't say this out loud, but I whisper, 'I'll live as long as possible for your part, too.'"

Maybe I'll hang onto these words for the time being.

It was good that we had a special milonga on the anniversary of my husband's passing back in February.  I'm planning to have another one next year again with Trio Los Fandangos.  It should be a wonderful time.

May 2020 bring you happiness and joy!


年の瀬に今年を振り返ってみれば、相変わらず心に空いた穴は厳然とそこにあり、おそらくそれはずっとそこにあるものだから、付き合っていく道を見つけ出すということなのだろう。
今年半ばぐらいになって、ようやく家を留守にすることに不安を感じず外出できるようになった。病床の夫がいつも家にいて、誰かがやってきていた時期が5年もあると、家を空けることが不安で、用事が済めば飛んで帰る毎日だったのだ。それがようやく心があまり乱されずに出かけられるようになったのが今年。
外に出たら出たで、世の中の変化の大きさに改めて呆然とする。
二人で出かけた場所や店は幾つもなくなり、新しい構造物が立ち上がり、技術もいつのまにかものすごく進歩している。
自分は相変わらず道端にへたり込んで立ち上がれず、遠くなっていくみんなの背中を眺めているような、そんな感じに襲われる。

そんな毎日の中でふと心に留まるのは、ラジオやテレビから流れてくる、同じ体験をした人の言葉。

 「忘れない、思い出さない、でいいんじゃない?」
 「もう夢も希望もないよ。でもさ、大きな声じゃ言わないけど、
  『あんたの分まで長生きするよ』ってね、思ってる」

そんな言葉を握りしめて、今は暮らしている。

今年夫の命日にミロンガができて、大勢の人に来てもらえたのはよかった。
来年もTLFに来てもらってミロンガをやる予定。
時期が時期なので、雪だけが心配だけど、きっとよい時が過ごせるはず。

新しい年、すべての人に祝福がありますように!

2019年12月23日月曜日

Ausencias(不在)

Ausencias は、今年亡くなった齋藤徹さんが1998年に出したアルバムのタイトルである。
意味は「不在」。徹さんがそのグループに入りたいと強く望みながら叶わなかった、
Astor Piazzola の楽曲を「卒業」するつもりで録音したアルバム。
ピアソラは95年亡くなった。ピアソラはもう、いない。しかし、その不在こそがその存在の大きさを感じさせる、との思いが込められてのタイトルだったと記憶している。

その徹さんとベースアンサンブルを組んでいた、田辺和弘、田嶋真佐雄、瀬尾高志の3人が
12月21日「Travessia de Tetsu」と題したライブを横濱エアジンで行なった。
3人とも、様々な形で徹さんの薫陶を受け、共演し、それぞれ個性的な活動をしているベーシストたち。その彼らが徹さんの楽曲を演奏するというのを楽しみにしていた。


 街
 Tango Eclipse 全3楽章
 西覚寺~トルコマーチ~Invitation
 フリーインプロヴィゼーション
 オンバク・ヒタム桜鯛 全3楽章
 Travessia


徹さんの音楽、徹さんの奏法が生き生きと蘇り、徹さんが演奏している姿が目に浮かぶ。
そこに、田辺さんのカンジェンゲ、田嶋さんのピチカート、弓を持ち替えて音色を変えるなど技ありの瀬尾さん、それぞれの魅力が加わる。
それはそれは特別な、素晴らしい音楽のひとときだった。

でも。
やっぱり徹さんはもういないんだなあ、とも感じてしまった。
徹さんの音楽はそこにあるけど、徹さんの「音」は聞こえなくて、
徹さんの不在が徹さんの存在が大きかったことを改めて知らせている。
三人の奏者の中に、しっかりと徹さんと徹さんの音楽が生きているからこそ、
そんな風にも思ってしまうわけで、嬉しくて寂しくて切ないような。

それで、
そういえば徹さん、Ausenciasってアルバム作ってたよね、
と思い出した。こんな風に思いがつながる言葉まで残していくところも徹さんらしい。

  


2019年11月14日木曜日

不思議なこと

昨日の朝、階下に下りてきたら、なんか話し声がする。

え?

声はデスクの上に置いてあるラジオから聞こえていた。




このラジオは、スペイン語講座をタイマー録音するためのものなのだけど、
充電器とスピーカーを兼ねたクレードルから少し浮いた格好でONになっていた。
いまはその予約した時間ではない。

なぜ?

位置が動いていたのは夜中に猫が蹴飛ばしたのかもしれないけど、
本体のスイッチはぐいっと押し下げるタイプ。ちょっと動いたくらいではONにならない。




なぜ?

本体をクレードルにカチリとはめると、スピーカーから関西アクセントの男性の声。

え?谷本さん?

いや、そんなはずはない。
でも、聖書の話をしている。
ダビデの詩編がどうとか、キリスト者の国籍は天にあるから天がHomeとか。
さらに聞き進むと、どうやらこれはゴスペルの歴史の番組らしいことがわかる。
それにしても、内容が説教(礼拝におけるみことばの解き明かし)になってる。

誰?

後で調べたら、これだった。

カルチャーラジオ芸術その魅力「ゴスペルソングの歴史」

話していたのはNOBUというゴスペルシンガー。
その世界では有名人らしいけど私はゴスペルはあまり聞かないので知らなかった。
ググってみた限りでは牧師ではないらしい。

どうやら再放送だったらしく、改めてこの回を聞きなおして確認はできないのだけど、
詩編39篇の
 主よ、私の祈りを聞き
 助けを求める叫びに耳を傾けてください。
 私の涙に沈黙しないでください。
という部分を引いて、
 神様を信じたからと言って、毎日がハッピーになるわけではなく、嵐はくる。
 ダビデのようにこう祈らずにいられない日もある。
 でも朝は必ず来て、朝には希望がある、ということをゴスペルは歌っている。
というような内容だったと思う。

たぶんそれは、私がいま必要だったメッセージなのだ。

必要なことはすべて神様が備えてくださる
すべてのことには時がある
というのはある意味信仰的生活の中心で、私もいつも心に思っていること。
だから、きょう私の耳にこのメッセージが届いたのだ。

だけど、ラジオのスイッチ。。。
不思議な出来事だった。

2019年11月12日火曜日

箱根に行ってきた

秋の箱根にドライブに行ってきた。

いつもは湘南から行くのだけど、なぜかナビが東名で行けというのでそっちから。
最初の目的地は山のホテルのティールームなのだけど、
なぜか小田原から箱根は旧道から行けと言う。
この道は交通量は多くないけど、狭くて勾配もきつい。
♬はっこねーのやっまわーてんかーのけん 
よいしょ、とハンドルを切りながら上る。
そんな道をハイキングする人がかなりいる。
普通の格好で歩いている人さえいる。
いったいどこからどこまで歩くのか?
自転車で上ってる人もいるではないか!なんなんだ。

目当てのティールーム、天気が良いのでテラス席はいっぱい。
一瞬空くのを待つことも考えたけどやめて、室内の窓際の席へ。
(これは正しい選択。テラスの人たちは私が食べ終わってもまだのんびりしてた。)

ルイボスティーグレープフルーツ風味。全然ルイボスの癖がなくて美味しかった。
オムレツ ラタトゥイユ添え。

芦ノ湖はすこし波立っていたけど、日差したっぷりでボートで釣りをする人も。


桟橋の先に立てば山影から富士山が。

デザートはパスして、仙石原をめざす。
先月通った時はすこし早かったすすきの原。
先の台風で被害があって一時閉鎖された遊歩道も一部入れるようになったそうなので
きょうは車を降りて歩いてみるつもり。




遊歩道はこんな感じに行き止まり。
すすきはもう終わりに近づいていたけど、広々した草原に揺れる穂は心和むものだった。

そしてポーラ美術館へ。開催中のシンコペーション展を見に。
以前、横浜美術館でも現代アートと過去の巨匠のスタイルとの関連性を扱った展示があり
とても興味深かったので、今回のこの展示も見たいと思っていたのだ。
期待を裏切らない、丁寧でよく考えられた展覧会だった。
ここは少し高いところなので、紅葉が進んでいる。
 

仙石原には親から受け継いだ別荘地(原野)があるのだが、
まさにそのすぐ下で土砂崩れがあり、
そのおかげで宮ノ下方面に抜ける138号線は通行止めになっている。
恐る恐る別荘地の様子を見に行く。
大きな倒木などは起きていなかったけれど、
もともと未舗装の道路がますますすごいことになっていて、ちょっと怖かった。

ここで立ち寄り湯でも使いたいところだけど、
日没の富士山を御殿場に下りる途中の「ふじみ茶屋」から見るにはもう時間がないので
そのまま出発。トンネルを抜け、さあ、と思ったら、なんと
ふじみ茶屋が閉まっていて車が停められず、写真も撮れず。
そのためにこっち側に下りたのに。
ここでお団子でも食べようと、デザート我慢したのに。
こんなことなら温泉に入ってきたのに。(T_T)

少し下ったところで路肩を見つけ、やっと1枚撮ったのがこれ。

またいつかこれもリベンジしないと。