2019年10月29日火曜日

「死者と生者」と「光と闇」と


先週末、大槻オサムさんと谷本仰さんによる
「ひとりの役者とひとりの演奏者による光と闇をめぐる時間」ホシハ チカニ オドル 
の東京公演があった。「ホシハ チカニ オドル」については、上記リンクを見てほしいが、
JOC臨界事故やチェルノブイリで被曝死した人たちに代わって語る試みから生まれたこの舞台は、2011年から公演を重ね、今回東京での公演で50回を数えた。谷本さんの活動を追う中で、いつか見たいと思っていたものの、出演者が広島と北九州なものだから(?)なかなかこちらの方では公演の機会がなく、今回やっと見ることができた。

たまたま初演の直後に福島第一原発事故が起き、一気に反原発・原発推進の議論が活発化したことでこの舞台への関心と要請も高まったので、もっと直截に反原発、あるいは反核を語るものかと想像していたのだけれど、そうではなかった。もはやここで表現されていることはもっと普遍的な、死者と生者、光と闇、そしてそれらをつなぐもの、だった。

光と闇とは対比されるものでありながら、闇があっての光、光があっての闇、という側面があり、どちらがよい、わるい、というものは、ない。(光であるのに闇を必要としないのは聖書の神の光だけだ。)それでも、私たちは光にポジティブなイメージを持ち、闇からは目をそらそうとして暮らしてはいないか。それは、本当に光を見ていることにはならないのではないか。

同様に、死者と生者も、実は分かちがたいものではないのか。生きている私たちの命は死んだ者たちの命とつながっているはずではないのか。それなのに、そのことを忘れて、いや気づかぬふりをして、わが身だけを考えて生きている者が多すぎやしないか。

そんなことを思って、舞台を見つめていた。

私が駆け出しの通訳者だったころ、原発関係の仕事はけっこう多かった。
ちょうど「もんじゅ」のプロトタイプが動き出していたころで、
テーマとなるのは核物質管理(セーフガード)が多かった。
資源を持たない日本のような国で、「もんじゅ」は救世主のように言われていたけど、
こんなうまい話があるわけはない、こんなにうまくいくものか、と私は思っていた。
当時IAEAやアメリカから来ていた技術者の物言いを聞いていると、
表向きは理論上可能なこの技術の推進を支持しても、
実はこれはやっぱり夢物語だと思っているのではないか、と感じることが多かった。
いくつものトラブルを経て、「もんじゅ」の廃炉が決まったことは周知の事実。

そんな様子を見てきていても、当時原発やセーフガードに関わって仕事をしていた人たちは、自分たちが何をしているのか、どんな危険があるかちゃんとわかっていたし、
私は原発についてヒステリックになることなく、むしろ楽観的だった。

JOC事故はもちろん、チェルノブイリ事故の時、私はすでにニュースの仕事をしていた。
ソ連時代、彼の国からの情報は限られ(次の共産党書記長が誰になるかは、革命記念日の軍事パレードの席次を見てあれこれと推論していたくらい)、その中で起きた大事故について我々が詳細を知るようになるのは何年もあとのことだった。そんな時代をイメージすることも、今は難しいのかもしれない。

福島の事故が起きて、非常用電源を海側に置くなどというトンデモナイことが行われていたことに、私はショックを受けた。慎重で綿密だったあの技術者たちの英知は、伝わっていなかったのか。バブル経済を機に、本当に金に魂を売ってしまった日本人が多くなったとは思っていたけれど、電力会社までがそうだったのか。人の命は地球より重い、なにより大切にされるべきということを、どこで忘れてきてしまったのか。放射能汚染より、そのことの方が深刻な問題にさえ思える。

日本の原発は、原子力武装に代わるものとして配備されている、とも言われていた。
これだけあちこちに原発のある日本を攻撃するとえらいことになりますよ、
という抑止だというのだ。
福島でその原発を自分で壊してしまって、影響がどれほどのものかばれてしまったから、
もう原発は抑止の役割を果たさない。某国から攻撃があるかもしれない。
きっとアメリカはもう庇ってくれない。どうするつもりなのだろう。

私が接してきた情報などはたいしたものではないけれど、リアルタイムでこうした出来事を知らなかった人に、知っていた者が伝える必要は、やっぱりあると思う。出来事が、記憶が共有されるためには、それらが語られなければならない。今の時代は幸いにしてさまざまなメディアに記録することが可能だから、体験者が存命のうちに、先の戦争や、大災害などの経験を記録しておいて欲しいし、それらをもとに演劇や映画、小説などを通じて伝えてほしいと思う。情報を伝えるだけでなく、忘れていたことを思い出すきっかけを与えるためにも。「ホシハ チカニ オドル」にもそういう役割があると、大槻さん自身も語っていた。

舞台を見てしばらくしてから、数か月前にどこかで目にした言葉を思い出した。

死者はこの世からいなくなってしまうのではない。
「死者」として我々と共にこの社会に存在しているのだ。

まったく物覚えが悪くて、本で読んだかテレビで見たかすら思い出せないのだが、
とても印象に残ったことばだった。
死者も社会の構成員として、無視してはいけない存在なのだ、
彼らの体験から学び、これからに生かしていかなければいけないのは、
彼らもまたここにいるからだ、というような話だったと思う。
この考えには私も大きく肯いた。
死者とどうつながって生きていけばよいのか、と問う向きには、
「ホシハ チカニ オドル」がきっと答えを示してくれるだろう。
 




2019年10月22日火曜日

Viva Rugby!

(日本語は下に)

Rugby is suddenly IN in Japan.
Quadrennial Rugby World Cup is now being held in Japan,
and the Japanese team won up to the quarterfinal for the first time ever.
At last World Cup in UK 4 years ago,
Japan surprised the world by defeating South Africa.
They won 3 of the 4 pool matches, but was eliminated in the pool stage.
This time, they won all of the 4 pool matches,
defeating powerhouses of Ireland and Scotland.
Many Japanese suddenly began claiming themselves as rugby fans.
The excitement has now subsided a little
as Japan lost to South Africa in the quarterfinals
(of course, the Springboks must have been determined
not to repeat the disgrace of 4 years ago)
but the extensive exposure of this unfamiliar sport to the general public in Japan
should have positive impact in the future.

I was not a rugby watcher, and this has been a great opportunity to learn about the sport.
What I really like about World Cup is that the nationality doesn't matter so much to represent a country in Rugby World Cup. 
You only have to have played 3 years or more in that country to make the national team. 
As a result, every team consists of players of various backgrounds and nationalities.
The Japanese team included players from New Zealand, Australia, South Africa, Tonga, South Korea, etc. 
This arrangement means that rugby is a sport in which  people of different color, ethnic and cultural backgrounds work together for a single goal of winning a match by coordinating and making most of their differences in physical characteristics as well as strong points and weak points .
Our society should be like that, I thought.  Narrow-minded nationalism is rising nowadays, and I hope Rugby World Cup served as a wake-up call to many of us.

Even though Japan has been eliminated, I'm looking forward to watching the semifinals and the final when the world's top class teams (called Tier 1) are expected to play with their full strength.



「にわか」である。

ラグビーのことは仕事上最低限必要な基本知識はあったけれど
試合を見てもよくわからないのであまり見ることもなかった。
今年の正月、
早明戦の後半をたまたま家に来ていた姉(連れ合いはラグビーやる人)や、
FB上の友人から教えてもらいながらTV観戦し、
デジタル化したせいか昔より密集の中が良く見えるようになったこともあり
ああ、これならなんとかワールドカップも見て面白いかもしれないな、
と思っていた。

今回、日本は初戦こそミスが多く不安な出だしだったけど、
プール戦残り3試合は、何が必要かをきちんと準備して実行する、
本当に美しいプレーで、勝ち負けよりプレーを見ることが楽しかった。
体格や能力の異なる選手が互いを生かしながら一つの目的に向かっていく。
なんて素敵なスポーツなんだ!
そしてチームは目標だったプール戦突破を全勝で成し遂げた。

準々決勝の南ア戦は、それまでの速さが影をひそめてしまい、敗退。
これはやっぱり、層の厚さの違いなのだろうと思った。
かねてから思っていることだけど、
MLBでワールドチャンピオンになるチームやサッカーワールドカップで優勝するチームは
その最終段階まで戦うつもりでそれだけの力を蓄えている。
逆に言えば、それだけの層の厚さ、優れた選手をそろえているチームが
そこまで勝ち上がることができるのだ。

ましてやラグビーは身体への負担が大きいスポーツだから、
プール戦を余裕を持って戦えるチームと、全力で行かざるを得ないチームとでは、
ノックアウトステージに入るときの状態は大きく違うはずなのだ。
今回の日本代表は、間違いなく史上最強だっただろうし、
それはメンバーだけでなく、日本のラグビー全体の力がそこまで上がってきた、
ということだろう。
ただ、英連邦伝統のスポーツにおいて、彼らと互角に渡り合うほどには
まだ至っていない、というだけのことだ。

プール最終戦直前に台風が来て、釜石ではカナダーナミビア戦が中止になり、
カナダチームは泥の掻き出しボランティアに参加、
ナミビアチームは避難所を慰問した。

翌日の日本ースコットランド戦は実施され、日本の勝利に沸いたが
選手たちが「被災者に元気を出してもらえれば」
と語ったのを「傲慢だ」という人がいた。
試合などやめてボランティアに行け、とまで言う人も。
そういうことを言う人はおそらくスポーツを「娯楽」
つまりは「必要ではないもの」と思っているのだろう。
そうした考えは「役に立たない」ものを否定することであり、
ひいては障がい者や高齢者、子どもたちを否定する発想とひと続きだと気づかないのか。

それに、スポーツや音楽、美術や演劇などあらゆる芸術は
娯楽でもなければ「役に立たないもの」でもない。
人が生きること、すなわち死に向かって進んでいくことを昇華させるのが
スポーツであり芸術であることを思えば、
災害など困難な時こそ、これらは必要なはずだ。

ラグビーワールドカップでは、ある国を代表するのに国籍は必須ではない。
その国で3年プレーしていて他の国の代表になっていなければよい。
だからどのチームも、色々な背景の選手によって構成され、
生まれや肌の色に関係なく、それぞれの体格や強みや弱みを生かし合いながら
試合に勝つという一つの目的に向かってプレーする。
さらに試合が終わればノーサイド、ラフプレーをした選手には直接謝罪に行くし、
お互いの良いプレーを称えあう。
紳士のスポーツと言われるこの伝統がどこから来たのかは知らないし、
見えないところではきれいごとばかりではなかったことも伝え聞く。
それでも、ラグビーが私たちの社会の在り方に与える示唆は大きいと思う。
大会はこれからがクライマックス、Tier 1と呼ばれる世界の強豪が
どんな真剣勝負をするのか、楽しみに観戦しよう。