2019年4月29日月曜日

音楽とダンスとことばと

10連休、10連休、と大騒ぎの上、あたかも元号が変わることで世の中も変わるような雰囲気作りに流されそうになるけれど、実際に起きた様々な事象を振り返れば、1989年1月6日から2019年4月30日がひとつのまとまりをなしているわけではないことは明らかで、時代の変わり目と言うにふさわしいときは、たとえば1995年であったり、2006年であったりするわけだけど、まあ、それはもっと後の時代にきちんと評価されることなのだろうと思う。そもそも、平安時代、鎌倉時代、と言った区切りで言えば、われわれは当分東京時代に生き続けるのだし。

連休の一日、エアジンに松本泰子(歌)、庄崎隆志(ダンス)、齋藤徹(コントラバス、作曲)によるDVD「Sluggish Waltz」発売記念ライブに行ってきた。
3・11を契機に「うたをつくりたい」という徹さんの思いに、さまざまな詩人のことばが集まり、歌とダンスとともに演じられた記録のDVDである。
私は収録された公演は見て(聞いて)いないので、今日がお初だった。

徹さんが松本さんを含むメンバーで即興をやったり、他のダンサーと共演するライブもこれまで経験したけれど、きょうはそこに「詩」そして「詩人」(実際に朗読で参加。ピアノの下に潜り込んで即興演奏に参加した詩人も約一名。)の存在が前面に出る形のライブだった。

私にとって一番身近な音楽は、クラッシック(古典派に限らず)など楽譜に書かれたものを解釈して表現するものだし、言語を扱う仕事をしているけれども、それは「事実、或いは事象を極力誤解の余地を排除して伝える」ための道具であって、ある意味音楽の場合と同様、解釈して表現する、という性格のものだ。徹さんや共演者の即興表現を見聞きするたびに感じていたのは、彼らには「いまこの音」「この動き」を選ぶことで自分自身をそこに投げ出していける力がある、ということだ。勇気があるなあ、といつも思っていた。

きょうはそこに、「音」「動き」に加えて「ことば」も入ってきた。「ここで何故このことば」「ここはひらがな、こっちは漢字(しかも常用漢字じゃない)」「段落分け」など、幾つもの決断を経て完成された詩たち。それが、詩人自らの声と息遣いで朗読されていく。それは、私が慣れている「いつどこで誰が何をした」が明確に伝わると言う文章とは違うところにあって、でもそこには確実に伝えたい心があって、その作り出す世界に、音楽と歌とダンスが重なり合って訴えかけてくる。

正直、圧倒されるばかりで、なにかを受け止めたとは到底言えない2時間ではあったのだけど、終わってみると不思議と「1番、2番、リフレイン、終わり」のような定型的な「歌」よりも強く印象に残っている断片がいくつもあることに気づいた。演者と観衆というのでなく、その場にいた者皆で作られていたパフォーマンスの中に私も確かにいた、ということか。

きょうのライブはこうこうでした、とうまくまとめることはできないけれど、思ったことを書きとめておきたくてここに書く。

DVDは完成・発売されているので、この世界を覗いてみたい人は買って見て欲しい。


2019年4月14日日曜日

自然の変化

日曜日、この表紙に絵が採用されている友人の個展に立ち寄り購入。
彼女は画材を担いで山に登り、その場で作品を描くスタイル。どっぷり都会生活の私と違って自然に入り込んで暮らす彼女に、たとえば丹沢などの身近な山で気象変化などの影響を感じているか尋ねてみたら、びっくりするような話が返ってきた。
山がとにかく荒れていて、彼女自身はもう行く気がしないし危ないところになっている、というのだ。長年の東名高速道路からの排気ガスと沿岸工業地域から風に乗って流れて来る汚れた空気、獣害、気候変動など、もろもろの影響で、いま斜面に下草が全くない状態のところが多く、それは「掃除機をかけたみたい」にまったくないそうだ。そこへ、以前に比べて増える豪雨、そして去年の24号のような猛烈な風の台風が来襲することで、木は倒れ、その倒れ方と言ったら「割り箸を100万本ばらまいたみたい」でかつて林道であったところももはやそこを通ることはあきらめるしかない状態。そして、木が倒れ下草の藪もないところに雨が降れば山の地面自体が持ちこたえられず崩れていく。
もっと登山客が来るような所ならお金をかけて整備もするのだろうけれど、丹沢のようなところはそのまま。そして、そうしたところに、身近な山だからと経験浅い年配登山者が入っていくことを想像するとちょっとぞっとするし、山体崩壊など起きれば大災害だ。こういう場所は、丹沢以外にも全国いたるところにあって不思議ではない。

今のこの国の社会は、本当によくない方向にまっしぐらでそれも暗澹たる思いにさせられるのだけど、自然環境も危ない方向にどんどん変化しているとしたら、なんだか救いがないなあという気にさせられた。