2015年8月24日月曜日

洗濯機

土曜日の朝、起きてみるとタイマーセットしておいたはずの洗濯が終わってない。
見ていると、脱水まで来てるんだけどその先に進まない模様。
洗濯物を出して、脱水だけやろうとしてみても、やっぱりダメ。

うーん、これは排水管の詰まりか、はたまた洗濯機の排水口の不具合か。

実は前夜、洗面所で歯磨きしながら思ったことがあった。

洋服とか、ちょっとした日用品とか、壊れるまで使ったりしないで、
そこそこのところで買い換えるよねえ。
車だって、壊れるまで乗る人もいるかもしれないけど、
大抵はその前に買い換える。

だけど、エアコンとか冷蔵庫とか洗濯機とかは
「もう~、急に壊れちゃってさあ」という話をよく聞くし、
私だって壊れて修理できなければ買い換える、でやってきた。
けど、これらの家電こそ、壊れたら困るものだし、
特に洗濯機はいま、病人のために毎日使ってるから壊れると困るよなあ。

ああ、私の心の声を聞いてたのね、洗濯機ちゃん。

排水管にしても洗濯機にしても、人に来てもらえば出張費で8千円とか、
それに技術料だなんだで2万円くらいはかかって、かつ直らないかもしれない。
やっぱり買い替えか。
そういえば、給水部のパッキンもゆるくなって洗濯終了後すぐ出さないとまた濡れちゃってたり、
以前排水部から水漏れもあったしね。

ネットで見てみると、いつも利用している家電店で
「今から1時間42分以内に注文で本日中お届け」
とある商品がある。よし、この中から選ぼう!

大急ぎで知人が運営する○○ク.comのクチコミをチェック。
今までのは乾燥機もついていたけど、ほとんど使わないから今度はいらないけど、
欲しいサイズと色が一致しないなあ、今年モデルはぐんと値段が上がるんだ、
など悩んでいるうちに刻々と時間が過ぎる。
やっと決めて購入手続きを始めたら、
まだ時間があるはずなのに「明日お届け」と出る!
なぜ~~?
再確認しようとすると今度はiPadのwifiが調子悪い。
閉じていたPCを慌てて起動してやり直し。
やっぱり「明日お届け」と出るけど、構わずポチ!
30分以内に電話確認依頼を選択して、先方からの電話を待つ。

20分ほどでかかってきた電話で当日配達可を確認して一安心。
これが14時前で、実際の配達は20時だった。

いやはやばたばたしたけど、店舗に出向かないで商品情報を比較して購入し、
こんなに早く届けてもらえるんだから便利な世の中になったものだ。




2015年8月12日水曜日

御巣鷹山

あのJAL事故から30年。
私が今の英語ニュースの仕事を始めて、3ヶ月目に入ったころに起きた事故だった。

当日の19時ニュースには私は入っていなかったのだけれど、
確かJAL機の機影がレーダーから消えた、という一報を入れて終わったのだった。
その後は夜通し錯綜する情報にマスコミも翻弄され、
事故機の行方が杳として知れないまま朝を迎えた。

当時私は、平日は民放の昼ニュースも担当していた。
7分間のニュースを、ネイティブのアナウンサー兼リライターと
我々ニュースライター2人(うち1人は同時通訳も兼ねる、私はその役割)
そしてディレクター1人という、とんでもなく省エネな人員で作っていた。
原稿が来るのはいつもギリギリで、放送が始まるとき終わりの方の原稿はまだ作業中。
それを書くライター1人を残して、あとの3人はスタジオに入って放送を始め、
ライターは原稿が書けたら後から突っ込み、アナウンサーはそれを読みながら英語を直していた。

普段からそんなだから、間に合わない原稿が同時通訳になることも多かったが、
あの日はそれ以上に事態が現在進行形だったから、書けるものがほとんどない状況だった。
墜落現場がようやくわかったものの、地上からの救助隊がなかなかたどり着けず、
様子がわからない。

あれもこれもわかりません、の繰り返しになってしまうのか、
と思いながらスタジオに向かう直前、
他局の画面がヘリに引き上げられる川上慶子さんの姿を映し出した。

生存者がいた!

この一筋の明るいニュースがあったことは、
この時の厳しい同時通訳を乗り切るのになによりの力になったのを覚えている。

その日の19時ニュースは、専門家の解説なども交えて2時間の長丁場になった。
私はライターで入っていたので、2人の先輩たちが生中継や解説だけでなく
流動的で書いてあった原稿が使えなくなってしまう場面も含めてカバーしていくのを
感心して聞いていた。

今なら、専門用語や背景情報の確認がインターネットですぐできてしまうが、
(不確実な情報も山のように入ってくるという問題もあるが)
30年前は原稿打つのもタイプライターだったくらいで、
「圧力隔壁」など航空機に関する用語を確認するのに
What's What や Oxford Pictorial Dictionary などが活躍し、
様々な専門用語や背景知識を確認するために、専門家に電話したりした。

当時は写真週刊誌全盛で、新聞などが載せられない痛ましい現場の写真を掲載するなど物議をかもしていた。私たちも、被害にあった方たちやその家族の心に配慮した表現の工夫など時間をかけて議論し日々報道に当たったのも、大切な経験だった。、
本当に、この事故のニュースを通じて多くのことを学んだ。

毎年この日が来ると、当時の緊張感が蘇ってくる。
改めて犠牲者の方々とご家族、そして搜索や捜査だけでなくさまざまな形で御巣鷹に関わった人たちに平安あれ、と祈りたい。

御巣鷹山へは Googleストリートビュー で行くことができる。
たまたまグーグルに入社したご遺族の一人が、会社に提案して実現したものと聞く。


2015年8月1日土曜日

熱中症注意

8月1日。
亡くなった父の誕生日である。今年はもう、おめでとうを言う相手がいないのだと
改めて思うけど、まあ、今までもちゃんと祝っていたわけではないので
偉そうなことは言えない。

32年前、同じく6月に同じく86歳で亡くなった祖父(父の父)も
8月1日が誕生日だったのだが、
葬儀の時、お棺に入れてくれと祖母が出してきた祖父のへその緒の箱を、
母がひょいと裏返して吃驚、誕生日は6月6日だったか、9日だったか、
とにかく8月1日ではない日付が書いてあった。
(私も見せてもらったけれど、びっくりしているうちにお棺に収められ
焼いてしまったから、正確な日付は雲の上である。)
なるほど、祖父は獅子座というよりはふたご座だったな、と思って、
ちょっと親近感を強くしたのだった。

それはともかく。

父の七七忌をすませるとともに梅雨も明け、一気に暑さが増してから、
なんとなく体調がすぐれずにいた。
朝起きてから夕方くらいまで、背中や脚がなんとなく痛み、動くのが億劫、
食も進まず、かといって風邪の症状があるわけでもなく、
とりあえず痛み止めと栄養ドリンクを飲み、仕事に行くとだんだん元気になり、
夜は気分も良くなるのだけど、翌朝はまた腰や背中が痛む。

数日それが続き、ふと熱を測ってみたら、37.3度あった。
私の平熱は35.8度くらいである。夏とはいえ高すぎだ。

「風邪なんか引かないぞ」

とツイートしてみたりしたものの、なにか違う気もしていた。
熱が37.6度まで上がった日も家事をしてどっと汗をかいたら36.6度まで下がり、
夕方仕事をしながら、ひさしぶりに買ったスポーツドリンクを2本飲み干したら、
身体のモヤモヤ感が取れてきた気がしたところで、はたと気づいた。

もしかして、熱中症?

私は夜中に2度くらいは目を覚ますのだが、
目が覚めたらうがいをしてついでに水を一口含むようにしているのだけど、
寝ている間に脱水しているとすれば、ただの水を飲むのはかえって良くなかったのかも?
それで朝は熱が上がっていたのかも?

そこで水やお茶が中心だった水分補給をスポーツドリンク中心に変え、
夜中目が覚めた時もスポーツドリンクを飲むようにし、
「塩分足りないなあ」と思いつつも手が伸びずにいた梅干を意識して食べるように変えたら、
3日ほどでそれまでの不調が解消した。

昨日、かかりつけ医にこの話をしたら、

「お年寄りだったら死んでたわよ」

と言われた。
やっぱり。これが室内でなる熱中症というやつか。

立秋に向かって、一昨日くらいから風が変わった気がするけど、
まだしばらくは「猛暑」らしいので、みんな、気を付けようね。

2015年6月27日土曜日

敗血症とか感染性ショックとか

6月13日、父の通夜から戻ると、留守を頼んでいたナースが
夫が熱があるようなので、抗生剤を始めておいたほうが良いと思う、
ドクターには報告しておくので、と言う。

夫は尿道カテーテルを使用しているため、時たま感染で発熱することがあり、
抗生剤は常備しているので、さっそくそれを夕食後の薬に加えた。
その後熱が38.9度まで上がったので解熱剤も投入して寝む。

翌14日、大汗かいて熱は下がり、尿量が少なかったりしたのも夕方までに改善し、
もう大丈夫だろうと思いつつ、その間4回着替えたものをせっせと洗濯。
夜はシーツも替えて、今夜は気持ちよく寝られるといいね、と話していた。

ところが私が寝ようとした午前3時、夫は寒気がすると言い出し、
布団を掛けたりしたものの、心配なのでソファで横になった。
朝までたびたび、水分補給やら、酸素を測ったりやらしていて、寝られたのは1.5時間ほど。

15日朝になっても熱が下がらず、酸素飽和度も下がっていたので、
呼吸器に酸素を流してみたが、思ったように上がってこないので、Dr.に往診を依頼。
尿に白血球が出ていたり、脇腹が張って痛みがあるので、
腎盂腎炎を起こしている可能性もあるとのことで、
通常3回に分けて服用する抗生剤を一括投与し、尿の培養検査をすることに。

その後、熱は下がったものの、腕から手の甲に汗をかいていること、
尿がミルクティーのように濁っていることという、今まで見たことのない所見があったので、
夫は大丈夫と言っていたけれど、寝不足でもあるし、仕事は休むことにした。

午後、訪問看護師が来たので2階で横になったら2時間寝てしまったていた。
降りてみると、感染性ショックが心配なので、先生を呼んでいます、と言う。
酸素飽和度と血圧がかなり下がっていたらしい。
改めて往診の結果は、敗血症の疑い。点滴の抗生剤を投与して、これが効けば、という。

効かなかったら、危ないのか?

本人は大丈夫だよ~、と言っているし、私も楽観的ではあったのだけれど、
一応妹だけには連絡してみたら、様子を見に来てくれた。

夜、経過を診にDr.が来る。やはり血圧が低く、ショック状態で、救急で運ぶ状態だと言う。
うちでは何があっても病院には行かない、と決めているし、
そのことは在宅療養に関わるスタッフ全員で共有しているはずなのに、
なぜまた、病院を持ち出すんだろう、とちょっとイラっと来る。

クリニックで手持ちの薬剤に限りがあるとか、いろいろ都合もあるんだろうけれど、
今が治療を急ぐ時なら、わかりきったことをまた聞かないでほしい、と思う。

血圧をモニターしながら、昇圧剤を少しずつ注射、さらにステロイド剤点滴でなんとか持ち直し、
昇圧剤の継続点滴をセットして、Dr.が引き上げたのが深夜0:30だった。
夫の様子を気にしながら、またソファで仮眠。

16日朝8時にDr.来訪。
抗生剤の点滴をし、血圧が上がっていて、尿も出ているので、快方に向かっているとのこと。
11時に同じクリニックの若先生が来るということなので、10時まで自分のベッドで休む。
若先生が来た時は、血圧も100以上になっていたので、ストップしていた内服薬や栄養を再開し、昇圧剤の点滴も普通のリンゲル液に替えて・・・としたところで、血圧急降下!
点滴に入っていた昇圧剤は、ダイレクトに作用するタイプのものだったので、
回復していたのは、それに頼ってのことだったのが判明。

これは身体の脱水がまだ続いている状態なので、急速輸液が必要。
点滴を全開にするも、これでは遅すぎる!と、
点滴液をシリンジにとってシリンジから押し込む策に出る、若先生の好判断で70台まで回復。

この日は訪問入浴だったけれど、お風呂は無理なので清拭をしてもらい、
その間血圧はなんとか70台をキープして終わり、
夜8時にDr.が来てくれたときは、80台後半まで戻っていた。
一応落ち着いて来たので、夜は2階で寝ることにしたのだけど、
朝8時には点滴を付け替えなければならず、起きられるのか不安。。

17日、点滴は続けているものの、全体的には落ち着いてきたようなので、
午後訪問看護が入ったところで、今度はさのすけを動物病院に連れて行く。
便秘である。このところのストレスが、さのすけにも伝染したのか?
うちの近所には2軒動物病院があるのだか、どちらも私が行ける午後の早い時間は休みのため、車で20分ほどの別の病院に行く。寝不足で運転は辛いが、しかたがない。
一旦帰って、夕方マッサージの人が来たところで、買い物と食事に出る。
うちには手首式の血圧計しかなかったので、上腕式の血圧計を買ってきて、ちょっと安心。

18日、だいたい復調、のはずが、今度は痰が取れなくて酸素飽和度が77とか出るし、
血圧が150台に跳ね上がるしで、カフアシストしたり、スクィージング、タッピングと、
点滴が繋がってる中でやるもんだから、もう大変。
もともと、血圧は高めで薬を飲んでいたのだけれど、
今回のことで中断していたところ、体調の回復とともにまた上昇傾向になったのでは、
ということで、血圧の薬を再開。
できるだけのことはして、どうしても取れないところはDr.とナースに任せて、
この日は仕事に行った。

帰ってきたら、すっきりしていたみたいで、それはよかったのだけど、
ナース達が使ったものが出しっぱなし、開けっ放しがいくつもあって、がっかり。
さらに、今頃になって点滴についての注意書きがテーブルの上に置いてある。
こういうものは3日目じゃなくて初日にいただければもっと有益だったでしょうね。
寝不足とイライラも極限である。

19日、感染症を起こしていた菌が特定され、抗生剤が変更に。
これまでのとは薬剤の合わせ方も変わって、ちょっと神経を使う。
この頃になると、輸液によるむくみが問題になってきたので、今度は利尿剤を使うことに。
体力の回復の為に栄養価を上げるため、通常の経管栄養に牛乳や卵などの追加を考える。


そんなこんなで、きょう27日現在、抗生剤の点滴は続け(あすまで)、
栄養強化は継続、投薬は最低限必要なものだけ再開、という対処で、
血圧は薬を使わず平常値、酸素飽和度、脈はまあまあ、というところ。

今回のエピソードが始まってからずっと声が出にくくなっていたのだけれど、
たぶん、それは脱水のせいだったようで、24日くらいからまた出るようになってきて、
おおよそ、以前の生活が戻ってきている。
ALSという病気はそれ自体「よくなる」ということがない病気だけれど、
それに伴って起きてくるトラブルは多々あり、その都度解決法を探しながらやってきたけれど、
今回はかなりシビアだった中で「よくなる」というシーンを見られて良かったと思う。

まあ、なにごともなく、淡々と、というのが本当は望ましいのだけれど。





2015年6月17日水曜日

Birthday 2015

(English text below.)

近年誕生日は、誕生日が近いタンゴ友Tちゃん夫妻といっしょに
ポルトガル料理なぞ食べに出かけて祝っていた。
夫が外出できなくなってからは、タンゴ仲間と家で餃子会をしているのだが、
今年は、Tちゃんが出産後間もない、ということもあったが、
それ以上に、なんとなくその気になれなかったので、
格別に行事は計画していなかった。

それはなにかの、「虫の知らせ」ってやつだったのか。

誕生日の早朝、妹から電話。
父が心停止となり、近所の病院に運んで処置中、と言う。

瞬間、思考停止状態になり、
きょうはナースが来るのが14時半だから、それまで出られないと思う、
また連絡する、と言って電話を切る。

階下に降りて夫に話すと、今、行ってくれば、と言う。
時計を見ると7時、普段夫の朝のルーティンは10時ころからだから、
夫がいつもどおり寝て待っていてくれれば、行ってくる時間はある。
幸い夫の体調はよかったので、出かけることにし、
妹に「今から支度して向かう」とメール。
そこらに出ていた服を身に着け、BBクリームだけ塗って家を出た。

車を出すときに妹からメール。

ダメだった

そうか。

カーオーディオから流れてきたのが、谷本仰 Solo Dialogues なのがありがたい。

病院に着き、処置を待つ間妹と話す。
どうも週末から体調を崩していたようで、痛み止めのせいでふらつくと言って、
妹の助けを借りて朝トイレに行き、妹が待ち構えていた車椅子に座ったとたん、
様子がおかしくなり、妹は心マッサージをしながら救急車を呼び、搬送したのだそうだ。
もともと心臓弁にトラブルを抱えていたところに、肺炎を起こし、力尽きたのだろう。

結局蘇生することはなかったけれど、
たぶん、一番びっくりしたのは本人だったのではないだろうか。
霊安室で会った父は、「あれ?来てたの」とうたた寝から起きそうな顔をしていた。

とりあえず、父を家に連れて帰らなければいけないのだが、
病院では、葬儀社を紹介することもできるし、
処置室から霊安室への移動を担当する葬儀社は、月ごとに交代で、
きょう入っている業者に頼んでも構わない、
もちろんもう決まっている場合はそちらに頼んでもらっても良い、という話だった。

妹と、去年母の葬儀をしてもらったH殿でいいよね、と話したのだが、
妹のスマホにH殿の電話番号の登録が、ない。

霊安室で待っていた、「今月担当の葬儀社」の人にこちらの意向を聞かれ、
H殿にお願いしようかと思ってるんですが、と言うと

「あ、そこに入ってるのがうちです!I橋です!」

スマホをいじる妹。。。 あ、あった、I橋で入れてたんだ。。。

来ていた人は別の支店の人だったので、連絡をとってもらい、
去年担当してくれた、I橋ではダントツだという女性が、
今回も担当してくれることになり、先週の土日で、無事葬儀をすませることができた。

母が亡くなった時は、妹から「危ない」と連絡をもらったのは、
火曜日午後の夫の訪問入浴の真っ最中で、
その後の時間帯も誰も入らない日だったから、病院に行くのは諦めたのだが、
姪のひとりが駆けつけるまでもたせたので、亡くなったのは夜になってからだった。
それならそこだけ、行けばよかった、と後悔したし、
その後も実家に行ったのは湯灌も済ませて、母の顔も作ってしまったあとになり、
私は一体何をやっているんだ、と、思った。

夫の病気のこともあり、親の死に目にはあえないだろうとは思っていたし、
実際、父のときも間に合わなかったのだけれど、
少なくとも今回は、人並みに知らせをもらって駆けつけ、
葬儀までの間も、実家で過ごす時間を持つことができたから、
気持ちは随分楽だった。

父は先週、母の遺したものの後始末を終えたところだった。
自分が逝ったあとのことまでは手がまわらなかったものの、
区切りをつけ、ほっとして逝ったのだろうと思う。
自分の父(私の祖父)も、同じ歳で亡くなったのが32年前の5日前だったことも、
意識のどこかにあったのかもしれない。

私は、性格ー特に欠点ーが父に似ているために、父が苦手で、
たぶん向こうもそうだったと思う。
だから、私たちは決して親密ではなかった。
それでも亡くなってみると、思い出すのは父の立派だったところ、
自分があれこれ楽しむことよりも、人助けを喜んでいたことなど、
長所と言えるところだ。
今年は戦後70年と言われるたびに、
父があまり話そうとしなかった戦争中のことを、一度聞いておきたいと思っていたのだが
それは叶わなかったのがひとつ、心残りだけれど、
いまは、先に逝った母に、
「え~?もう来たの?」
と邪険にされていなければいい、と思うのだ。

My father somehow chose my birthday last week to die.
Maybe it's for me to remember the day. (In Japan, the day of death is more important to remember than one's birthday.)

He had heart problems for many years. He suffered pneumonia over the weekend, and apparently his heart gave in just after my sister took him to bathroom in the morning.

I was never close to my father, largely because I inherited his shortcomings, and I hate to find them everytime I saw him.

In order not to disrupt my husband's daily routine, I only attended the vigil and missed the funeral ceremony.  Still, I could spend more qualify time with my family over last week than when my mother passed away last October.

My father just finished dividing what my mother left among us, so he must have felt relieved as he went to her side even though he didn't finish taking care of what he was going to leave behind.  We only hope that my mother is not too surprised at his joining her so soon.

2015年5月27日水曜日

二人羽織

夫は病気で手が不自由になってからは、
手のひら大のトラックボールを足で操ってパソコンを使っていた。
去年それも難しくなりベッド生活になってからは、
スペック・スイッチを足に一個ずつ付けて右クリック、左クリック、
そしてテーブルに取り付けたジョイスティック・マウスのスティック部分にストローをはめて延長し
これを顎で操作する、という「顎足マウス」方式で、PCを自分で使ってきた。

  とはいえPCをセットしてしまうと日中ナースやヘルパーの作業の邪魔になるし、
  セッティングがなかなか微妙で、私以外の人には難しいということもあり、
  PCを使うのは夜寝る直前から、朝目覚めてから私が起きてくるまでの
  限られた時間しか使うことはできなくなっていた。

これもいずれ使えなくなることを考えて視線入力ソフト導入の準備をしているのだが、
そのためにPCも新しくしなければいけなかったりで、まだそこにいたらないうちに、
顎足方式が使いにくくなってきたこのごろ。

それでもDrや友人とのメールのやり取り、SNSの投稿など最低限のことは続けていきたいので、夫のテーブルに置いたPCを私が後ろから操作する二人羽織方式をやってみた。しかし、こちらの立ち位置が難しいし、液晶画面を夫に合わせるとこちらは見えないし、なかなか思うに任せない。

そこでリビングのTVにディスプレイを映し出し、夫にそれを見てもらって、
私が本体で操作する、というのをやってみたのだが、
TVは夫から斜め方向に有り、画像は見られても文字を読むのは難しい。

それではとワイヤレスキーボードを入手し、
去年顎足マウスに到達する前に試しに購入したワイヤレスマウスと組み合わせ、
本体は夫の正面に置き、私がTV画面を見てワイヤレス機器で操作する、
という方式で、なんとか最低限の作業はこなせるようになった。

ほかにも雑誌記事等はスクロールすれば読める状態にセットして、
矢印のところにポインタを置き、足に左クリックのスイッチを付けて
自分でスクロールして読む、というのもできている。

パソコン操作を専門にしていた夫からすれば、なんとも歯がゆいし、
コメントなどの書き込みをする余裕もなく、ストレスが多いことだろうと思う。

準備中の視線入力が早く上手く使えるようになって、
また夫が生き生きと外の世界とコミュニケーション取れるようになるとよいのだが。

2015年4月27日月曜日

療養生活を支えるもの(4)スイッチボックス

夫は元気な時から比較的痰が多く出る方で、呼吸が弱くなるにつれて、
それを処理することが徐々に難しくなってきた。

仕事に行っているときは、スクリュートップの缶コーヒーの空き缶を携帯し
それを痰壷がわりにしたりしていた。

自宅療養に入る時に吸引器を購入。(1台目は公的補助あり)
始めは自分でスイッチを操作して使っていたが、手の力が衰えてきて
スイッチを押すのが難しくなり、フットスイッチ付きのものを新たに自費で購入。
日中椅子に座って過ごしていたときは、マイクスタンドの先に、
マイクの代わりに吸引用の「レディケア」という芯入のチューブを装着し、
口元にいつもスタンバイさせておいて、必要な時に足でスイッチを押していた。

その後足の力も弱くなってこのフットスイッチも使えなくなり、
ベッド生活に入ってからは、吸引が必要な時は人に頼まなければならず、
誰も近くにいない時に痰を誤嚥する心配があり、実際随分苦しい思いをすることもあった。

いま夫は足先はまだ少し動かせるので、
軽い力で押せる「スペックスイッチ」というのを足につけて
パソコンのマウスのクリックに使っているのだが、
同じようなスイッチで吸引器のON/OFFができればいいのだが、
そういう軽いスイッチではそこまでのパワーはない。

多少電気の心得のある夫は、「リレーを作ればいいと思うのだけど」と言っていたけれど、
いかんせん手が動かないので自分では作れないし、私などにはさっぱりわからない。
ところが先日、古い友人がそれを実現してくれた。

この人は電気や音響の仕事をしている人で、夫はその趣味を通じて知り合ったのだが、
後に、別の場所で知り合った友人の義兄にあたる、ということがわかったというご縁。
先月、その別の友人の方から、「義兄がなにか手伝えるのでは」という申し出があり、
久しぶりに連絡を取ってこちらの希望を伝えたところ、
あれよあれよという間に立派なスイッチボックスを作ってくれたのだ。



 
ウラ・オモテ



この写真の手前にあるのが「スペックスイッチ」というやつだ。
50g以下の力でON/OFFができる。




こういう障害者支援機器というのは通常、市の支援センターが対応してくれて、
うちでもパソコンに足で操作するトラックボールをつなぐ仕組みとか、
その後今も使っている、顎と足でマウスを操作する仕組みとか、作ってもらったのだが、
この人たちはとにかく仕事が遅い。
アポとって来るまで2週間、作成まで2週間、
できたものを試して、しかし実際に渡すものは改めて新品で作るから・・・
などとやっているうちにどんどん時間が過ぎてしまい、
進行性の病人をなんと思っているのかといつもいらいらさせられた。

今回作業してくれた友人は、脳梗塞やら癌やらの既往症があり、
今も手が震えるなど自身が不自由な身体なのに、
最初に連絡をとってから納品まで3週間、
打ち合わせに来宅してから2週間でやってくれたのだ。
感謝である。

おかげで夫はまた、自分が必要な時に自分で吸引器を作動させることができるようになり、
夫のストレスも、介護側の負担も減り、助かっている。

痰の吸引は、ALS患者に限らず様々な在宅療養者と介護者の課題になっていると聞く。
一人ひとり状況は違うものなので、ほかの人のことはわからないけれど、
もしかするとこの装置が助けになる人もあるかもしれない。
今回作ってもらったスイッチボックスの回路は公開して構わないと友人も言ってくれており、
それがあれば、おそらく工業高校の生徒さんでも制作できるだろうということなので、
関心のある方はコメントでお問い合わせくださればと思う。