年末年始は、母の喪中ということもあり格別何もせずに過ごしていた。
11月中に喪中はがきを出してもう年賀状の心配もなく、
と思っていたら、何人かはお構いなしに年賀状をくれたり、
さらにそのあとに寒中見舞いをくださる方ありで、
なんというか、そのテの繁忙感が少しずれてやってきたなあ、
でもめんどくさいなあ、と思っているうちに1月は半分過ぎてしまった。
振り返れば、夫が1階のリビングと2階の寝室を移動するのをやめ、
リビングに置いた介護ベッドで生活するようになって1年が過ぎたことになる。
移動していた最後の頃は、支えても立つことが困難だったから、
ベッド~車椅子~昇降機~車椅子~ストレスレスチェア
と移乗させるのに結構苦労していたから、
ベッド生活になる前に私の腰がイカレなくてよかったとほっとしたものだった。
移動していたことは、やはり夫の体調にも大きく影響していたようで、
ベッド生活になって、病気の進行は緩やかになったように思える。
とはいっても、最初の3~4ヶ月は、身体を起こすことが少なくなったことで
お腹の調子などあらたな不調も出てきていろいろ大変だった。
夫が2階で一緒に寝ていた頃は、夫を寝かせてから自分が寝み、
朝は先に起きて、階下の準備を整えてから夫の身支度をして移動介助していたから、
寝るのが4時間だろうと3時間だろうと、目覚ましがピッと鳴った瞬間に止めて、
がばと起き出して動いていたのだが、2階で私一人で寝るようになったら、
朝、起きられない
目覚ましのスヌーズを4回、5回と鳴らして、やっとの思いで起き出す。
自然に目が覚めるた日が2日あったかどうか、とにかく去年は眠い1年だった。
それに加えて去年は、なーんとなく筋肉痛のような、だるさのような、
どーも身体がしゃきっとしない感じがず~~~っと続いていて、
眠いのと相まって、サエない空気が付きまとう1年でもあったのだが、
こちらのほうは12月になってひょんなことから改善した。
もともと私は好んで牛肉を食べる方ではなく、
以前書いたように コレステロールを気にしているから、
外食時には肉より魚、野菜、を選ぶようにしていたのだが、
ある時ファミレスで「厚切りローストビーフ」がとても美味しそうだったので
食べてみたところ、なんとその翌日、今までの身体の不快感がなくなっていたのだ!
牛肉に含まれるアミノ酸のせいなのか
はたまた気のせいなのか
なんにせよ、私の頭には
元気が出なけりゃ肉を食え
という、タンゴ人なら当たり前のことが改めて強くインプットされたのだった。
以来、やはり身体が求めるものを食べるべし、と肉も結構食べているので、
来週の検査の結果がどう出るか、ちょっとドキドキだ。
2015年1月18日日曜日
2014年12月31日水曜日
ブランデンブルクから1812年まで
今年の正月に、バッハのブランデンブルクを聞きたいな、と思ってかけたのをきっかけに、
朝は家にあるクラシックのCDを片端から聞いてきた。
「クラッシック」の中身は、グレゴリオ聖歌から高橋悠治まで、いろいろである。
大体、同じCDを2回聞くようにして、中には3回、4回と聞いたものもあるし、
1回でこれはもういいね、となったのもありで、大体160枚以上聞いた勘定になるが、
まだラックにはCDが残っている。
とりわけ印象深かったのは、アバド指揮、ポリーニ独奏,、ベルリン・フィルの
ベートーベンピアノ協奏曲
ライブ盤なのに、完成度が高く、何度でも聞きたい名盤だった。
我が家ではいま、ステレオを聞くのに最適の位置に夫のベッドを置いているのだが、
この第2番は、音に敏感な猫たちが夫の脚の間に陣取ってずっと聞いていたくらいだ。
CDの中には私がヴァイオリンのお手本用に購入したものもけっこうあり、
同じ曲が思いがけずあっちにもこっちにも入っていたりして、
聴き比べの楽しみもあった。
大晦日の今日巡ってきたのは、小澤征爾指揮、ベルリン・フィルの
チャイコフスキー 交響曲第5番と序曲1812年
このところヴァイオリンや室内楽が続いていたので、
しっかりしたオーケストラを聞けて気分が良かった。
「1812年」を聞きながら、「フランス人はこの曲をどう思うんだろうねえ」
などと夫と話しながら、ストレッチをしたり朝食の世話をしたり。
一昨年、昨年は、病気の進行で身体の可動範囲、呼吸の苦しさがどんどん変化し、
それに合わせて日常の動作もいろいろ工夫しなければならず、
「いつもこう」という手順が決まることはなく、数日~数週間でやり方が変わっていたが、
今年は年明けからベッド生活になったこともあり、また体調も安定していたので、
朝の時間の過ごし方も「ルーティン」と言えるようなものができ、
毎日こうして音楽を楽しむことができた1年だった。
この先どう変化していくのかは予想がつかないけれど、
なんとかまた迎えられそうな新しい年が、穏やかであって欲しいと思う、
2014年の大晦日である。
朝は家にあるクラシックのCDを片端から聞いてきた。
「クラッシック」の中身は、グレゴリオ聖歌から高橋悠治まで、いろいろである。
大体、同じCDを2回聞くようにして、中には3回、4回と聞いたものもあるし、
1回でこれはもういいね、となったのもありで、大体160枚以上聞いた勘定になるが、
まだラックにはCDが残っている。
とりわけ印象深かったのは、アバド指揮、ポリーニ独奏,、ベルリン・フィルの
ベートーベンピアノ協奏曲
ライブ盤なのに、完成度が高く、何度でも聞きたい名盤だった。
我が家ではいま、ステレオを聞くのに最適の位置に夫のベッドを置いているのだが、
この第2番は、音に敏感な猫たちが夫の脚の間に陣取ってずっと聞いていたくらいだ。
CDの中には私がヴァイオリンのお手本用に購入したものもけっこうあり、
同じ曲が思いがけずあっちにもこっちにも入っていたりして、
聴き比べの楽しみもあった。
大晦日の今日巡ってきたのは、小澤征爾指揮、ベルリン・フィルの
チャイコフスキー 交響曲第5番と序曲1812年
このところヴァイオリンや室内楽が続いていたので、
しっかりしたオーケストラを聞けて気分が良かった。
「1812年」を聞きながら、「フランス人はこの曲をどう思うんだろうねえ」
などと夫と話しながら、ストレッチをしたり朝食の世話をしたり。
一昨年、昨年は、病気の進行で身体の可動範囲、呼吸の苦しさがどんどん変化し、
それに合わせて日常の動作もいろいろ工夫しなければならず、
「いつもこう」という手順が決まることはなく、数日~数週間でやり方が変わっていたが、
今年は年明けからベッド生活になったこともあり、また体調も安定していたので、
朝の時間の過ごし方も「ルーティン」と言えるようなものができ、
毎日こうして音楽を楽しむことができた1年だった。
この先どう変化していくのかは予想がつかないけれど、
なんとかまた迎えられそうな新しい年が、穏やかであって欲しいと思う、
2014年の大晦日である。
2014年12月29日月曜日
餃子忘年会
年に何回かタンゴ仲間と開いている餃子の会。
12月は初旬が忙しい人、押しつまると時間がない人、週末が仕事の人
いろいろ都合を合わせるのが難しく、結局28日に人数少なめで忘年会を開いた。
当日横浜でミロンガを開いていたとしゆきさんにも声をかけておいたところ、
最近としゆきさんにダンスを習い始めたオルケスタYOKOHAMAのメンバーも
急遽参加してくれたので、初顔合わせ同士の方もあり、賑やかな会になった。
今回はいつもの餃子包み隊が欠席だったので、早く来た人で餃子を包む。
Rueda de Tango の二人が今年始めた菜園で収穫した野菜を
餃子の餡に入れてくれたので、しっかりした味の餃子ができた。
他には、野菜マリネ、スペアリブと大根の煮込みを作り
お持たせの焼売、生活クラブの中華ちまきなど、美味しく頂いた。
食事とおしゃべりをひとしきり楽しんだあとは、
Kさんのスペイン北部~ポルトガル旅行のプレゼンを見る。
美味しそうな料理、美しい景色、すてきなホテルの部屋に皆が感嘆の声を上げる中、
「この線路は高速なんだ」「この車両は○○系だ」
と一味違うコメントを連発する人、約1名。。。
デザートは、Tさんがロンドン出張でゲットしてきた現地直送クリスマス・プディング。
12月は初旬が忙しい人、押しつまると時間がない人、週末が仕事の人
いろいろ都合を合わせるのが難しく、結局28日に人数少なめで忘年会を開いた。
当日横浜でミロンガを開いていたとしゆきさんにも声をかけておいたところ、
最近としゆきさんにダンスを習い始めたオルケスタYOKOHAMAのメンバーも
急遽参加してくれたので、初顔合わせ同士の方もあり、賑やかな会になった。
今回はいつもの餃子包み隊が欠席だったので、早く来た人で餃子を包む。
Rueda de Tango の二人が今年始めた菜園で収穫した野菜を
餃子の餡に入れてくれたので、しっかりした味の餃子ができた。
他には、野菜マリネ、スペアリブと大根の煮込みを作り
お持たせの焼売、生活クラブの中華ちまきなど、美味しく頂いた。
食事とおしゃべりをひとしきり楽しんだあとは、
Kさんのスペイン北部~ポルトガル旅行のプレゼンを見る。
美味しそうな料理、美しい景色、すてきなホテルの部屋に皆が感嘆の声を上げる中、
「この線路は高速なんだ」「この車両は○○系だ」
と一味違うコメントを連発する人、約1名。。。
デザートは、Tさんがロンドン出張でゲットしてきた現地直送クリスマス・プディング。
濃厚なフルーツケーキをギュッと固めたようなもの。
「電子レンジで温めてブランデーをかけて火をつける」
という指示に則り、随分以前に買ったままにしていた製菓用のブランデーを取り出してやってみた。
私は点火していたので、撮影はTちゃん。
このあと周囲に落ちたブランデーの上を、青い炎がぐるぐる回って、
クリスマスにふさわしい、ミステリアスな感じだった。
日曜日で終バスが早かったため、あまりゆっくりしてもらえなかったけど、
出かけていけない私たちのために、決して便利なところではない我が家まで来て
楽しい時間をプレゼントしてくれる餃子の仲間たちに感謝である。
これに懲りずにまた来てね。
2014年12月11日木曜日
Midsummer Night's Tango 白夜のタンゴ
Yesterday, I went to see a movie for ther first time in a long while.
http://documentaryedge.org.nz/2014/wgtn/film/midsummer-nights-tango
It's a documentary film about 3 Argentinian tango musicians traveling Finland to check out the notion that tango music was born not in their own country but in Finland.
I thoroughly enjoyed it for several reasons.
It was a good example of intercultural communication experience which is my expertise.
It featured scenes that stimulated my interests as singer, musician and dancer.
Music was nice---both Finnish and Argentinian.
If you are tango lover solely in the sense of listening to the music or dancing at milongas, this film may not be so interesting. Come to think of it, it was perfect for a person like me.
My favorite part was early in the film where they presented what tango in Argentina is like.
They didn't use the stereotype scenes of tango shows or milongas or Caminito.
Sure, the essence of tango is not in the appearance.
昨日久しぶりに映画館に行った。
夫が病気になってからは本当に時間がなくて、
あったとしても、たいていの上映時間は都合が悪くて、もう無理だとと思っていた。
ドイツ、アルゼンチン、フィンランド合作の「白夜のタンゴ」
奇跡的に私が行かれる時間の上映の日があったので行ってきた。
「タンゴはフィンランドで生まれたんだよ」という説を確かめに
3人のアルゼンチンのミュージシャンがフィンランドにやってきて。。。
というロードムービー的ドキュメンタリー。
アルゼンチン・タンゴの音楽を聴くだけの趣味の人や
ドレスに着替えてミロンガに行くのがタンゴだと思ってる人には
ピンと来ない映画かもしれないけど、
私にとっては、これまで見たタンゴの映画の中で
もしかすると一番面白かったかもしれない。
というのも、比較文化学や異文化間コミュニケーションという
私自身の専門の目から見て、アルゼンチンとフィンランドの人たちの交流や
それぞれの文化におけるタンゴのあり方がとても興味深かったし、
私も少しは楽器を弾くので、ミュージシャンのやりとりやセッションは
文句なしに面白いし、歌もやっていたから、歌のレッスンや、
歌手の人の話も示唆に富んでいた。
そして、私もタンゴを踊るから、ダンスの面でのタンゴのシーンもまた楽しめた。
要するに、「よくわからないなあ」というところがなくて、
楽曲はみんな美しいし、いい時間を過ごさせてもらった気がした。
友人に「タンゴを知らないと面白くない映画かしら?」
と聞かれて、「音楽が好きなら十分楽しいと思うよ」と答えたのだが、
もう少しよく考えてみると、やはり異文化の出会いの部分が面白かったと思うので、
「文化とその中での音楽の存在と役割について興味のある人に面白い映画だ」
というほうがあたっているかもしれない。
夫と一緒に見られれば、さらに何倍も楽しかっただろうと思うけれど、
見ることができてよかった、と思える映画だった。
2014年12月8日月曜日
郵便投票
久々の更新。
うかうかしているうちに、師走。
そして、衆議院選挙である。
夫のように障害者だったり要介護度が高く外出できない人には
郵便投票という制度がある。
ALSの人でもこの制度を知らない人がいるみたいなのだが、
うちの場合は確か、区役所の人に窓口で教えてもらった。
前回総選挙になったときで、あの時も急に解散したからあまり時間がなかったけど、
選管の人ががんばって「郵便等投票証明書」をスピード発行してくれたので、
無事に郵便で投票することができた。
この「郵便等投票証明書」を持っている人は、選挙の都度、
投票用紙の申請書とこの証明書を同封して選管に送ると、
選管から投票用紙と返信用の封筒が送られてくるので、
用紙に記載して指定の二重封筒に入れ、外封筒に住所氏名を書いて、返送する。
投票用紙と外の氏名は自筆と決められていて、
それができない人は代理記載を認めてもらって行うことができる。
(上のリンクの下の方に詳しい説明アリ)
夫の場合、去年の参院選の段階で、一人でペンを持つのは難しかったので
この制度を使おうとしたのだけど、夫はいま「四肢1級」という障害で、
代理記載に該当するには「上肢1級」でなければならず、
障害の等級見直しの手続きは選管のようにスピード感がないので(通常1~2ヶ月)、
到底間に合わなかった。
次の選挙は2015年の統一地方選だから、それまで生きてたら手続きしようね、
と言い、そろそろ動こうか、と思っていたらこたびの解散である。
そもそも、「四肢」に「上肢」が含まれないのは日本語として変じゃないのか、
とか、ツッコミどころはいろいろあるのだが、法律をどうこういっても仕方がない。
当地の頑張る選管が、公示日前に申請書を送ってくれたので、
すぐに証明書とともに返送。
一昨日、投票用紙、候補者名簿、政党名簿一式が届いたので、今日記入して投函した。
ひと仕事終わってホッとする。
あとは、自分が投票に行くのを忘れないようにしないとね。
うかうかしているうちに、師走。
そして、衆議院選挙である。
夫のように障害者だったり要介護度が高く外出できない人には
郵便投票という制度がある。
ALSの人でもこの制度を知らない人がいるみたいなのだが、
うちの場合は確か、区役所の人に窓口で教えてもらった。
前回総選挙になったときで、あの時も急に解散したからあまり時間がなかったけど、
選管の人ががんばって「郵便等投票証明書」をスピード発行してくれたので、
無事に郵便で投票することができた。
この「郵便等投票証明書」を持っている人は、選挙の都度、
投票用紙の申請書とこの証明書を同封して選管に送ると、
選管から投票用紙と返信用の封筒が送られてくるので、
用紙に記載して指定の二重封筒に入れ、外封筒に住所氏名を書いて、返送する。
投票用紙と外の氏名は自筆と決められていて、
それができない人は代理記載を認めてもらって行うことができる。
(上のリンクの下の方に詳しい説明アリ)
夫の場合、去年の参院選の段階で、一人でペンを持つのは難しかったので
この制度を使おうとしたのだけど、夫はいま「四肢1級」という障害で、
代理記載に該当するには「上肢1級」でなければならず、
障害の等級見直しの手続きは選管のようにスピード感がないので(通常1~2ヶ月)、
到底間に合わなかった。
次の選挙は2015年の統一地方選だから、それまで生きてたら手続きしようね、
と言い、そろそろ動こうか、と思っていたらこたびの解散である。
そもそも、「四肢」に「上肢」が含まれないのは日本語として変じゃないのか、
とか、ツッコミどころはいろいろあるのだが、法律をどうこういっても仕方がない。
当地の頑張る選管が、公示日前に申請書を送ってくれたので、
すぐに証明書とともに返送。
一昨日、投票用紙、候補者名簿、政党名簿一式が届いたので、今日記入して投函した。
ひと仕事終わってホッとする。
あとは、自分が投票に行くのを忘れないようにしないとね。
2014年11月5日水曜日
ぎんぶら
ヴァイオリンの弦や楽譜、来年のカレンダーを買いに、銀座へ。
久しぶりに東海道線に乗ったら、品川駅のホームの様子が変わっているし、
新橋駅も階段が付け変わってるし、世の中どんどん変化しているんだな。
まずどこかで腹ごしらえ、と思いつつ新橋から銀座通りに向かう。
銀座天國は美味しいけど、揚げ物は避けてるし、お値段も、
と思って通りすぎかけたら
「お昼天丼1,100円」
が目に入る。もう15時半だけど、まだやってるんだ。
この時間、ほかの店では美味しいものにはありつけないかも。。。
で、Uターン!
メニューには銀ブラにふさわしい、こういうのもあったけど
きょうはやめておく。
さて、目当ての音楽ショップに向かって歩き出すと
周りから聞こえてくるのは中国語ばかり。
次々と到着する観光バスから吐き出される中国人観光客が
大きなスーツケースをガラガラ引きずりながら
四方八方をスマホで撮影しながら
大声でああだこうだとしゃべりながら
あの広い銀座の歩道を占拠。
先日友人から聞かされてはいたけれど、これほどまでとは。
すっかり買い物気分が萎え、必要な買い物だけするモードになってしまった。
それでも1軒目のショップは静かだったこともあり、
久しぶりに楽譜をあれこれめくって小一時間過ごし、
銀座の華やかな雰囲気と、それとちぐはぐな観光客に気圧されながらもう1軒へ。
ここでしか扱っていない弦と来年の音楽カレンダーをゲット。
ここ数年、この雨田のカレンダーを買うのに出遅れていたので
今年は早く買えて満足。
そのまま有楽町から帰る手もあったけど、それだとまた乗り換えで歩くし、
まだ時間もあるから、美味しそうなコーヒーショップを探しつつ
また新橋方面に戻る。
郵便を出さなければいけなかったので、ポストを探すが見つからない。
と、あれ、今通り過ぎたのはポスト?
久しぶりに東海道線に乗ったら、品川駅のホームの様子が変わっているし、
新橋駅も階段が付け変わってるし、世の中どんどん変化しているんだな。
まずどこかで腹ごしらえ、と思いつつ新橋から銀座通りに向かう。
銀座天國は美味しいけど、揚げ物は避けてるし、お値段も、
と思って通りすぎかけたら
「お昼天丼1,100円」
が目に入る。もう15時半だけど、まだやってるんだ。
この時間、ほかの店では美味しいものにはありつけないかも。。。
で、Uターン!
メニューには銀ブラにふさわしい、こういうのもあったけど
さて、目当ての音楽ショップに向かって歩き出すと
周りから聞こえてくるのは中国語ばかり。
次々と到着する観光バスから吐き出される中国人観光客が
大きなスーツケースをガラガラ引きずりながら
四方八方をスマホで撮影しながら
大声でああだこうだとしゃべりながら
あの広い銀座の歩道を占拠。
先日友人から聞かされてはいたけれど、これほどまでとは。
すっかり買い物気分が萎え、必要な買い物だけするモードになってしまった。
それでも1軒目のショップは静かだったこともあり、
久しぶりに楽譜をあれこれめくって小一時間過ごし、
銀座の華やかな雰囲気と、それとちぐはぐな観光客に気圧されながらもう1軒へ。
ここでしか扱っていない弦と来年の音楽カレンダーをゲット。
ここ数年、この雨田のカレンダーを買うのに出遅れていたので
今年は早く買えて満足。
そのまま有楽町から帰る手もあったけど、それだとまた乗り換えで歩くし、
まだ時間もあるから、美味しそうなコーヒーショップを探しつつ
また新橋方面に戻る。
郵便を出さなければいけなかったので、ポストを探すが見つからない。
と、あれ、今通り過ぎたのはポスト?
そうだった。。。なんでこんな色なんだ。。。
夜目に見たので紺色だと思ったら、
あとで調べたところ、これは「景観に配慮した緑色」
だそうだ。
夜の女性たちが着物姿、ドレス姿で出勤してくるのを横目に
観光客が入ってこなさそうなコーヒーショップで休憩。
きょうは普段避けているものを食べてしまったから
帰ったら野菜を補給しないと。
2014年10月14日火曜日
Goodbye, Mom. 母を送る
My mother passed away last week.
She had a bad stroke (subarachnoid hemorrhage) 20 years ago, lost speech and became mostly bedridden. She lived at home until early September when she developed pneumonia. She was taken to hospital where she died. I could not come to see her off, but I was ready for that ever since my husband was diagnosed with ALS.
I wasn't even sad at the news of my mother's death. Rather, I was relieved that my mother is finally free from all her difficulties. Still, I had some unsettling feeling in my heart that I could not put a name on.
When I came home from her vigil (I could not attend the funeral.) and was making bed for myself, I felt tears suddenly welling up. The fact that my mother no longer existed in this world struck me, and made me cry. I learned that it was her absence, or my sense of loss, was that strange feeling wobbling in my heart. After some crying, it was gone, and I felt I could go on, looking straight ahead.
It seems to me that children or grandchildren are the best visible legacy of someone's life. I look very much like my mother, so it's obvious that I'm the testimony that she lived.
But my wish would be to be her positive legacy not only for my appearance but for who I am.
Thanks and Goodbye, Mom.
先週、実家の母が逝った。
母は、20年前クモ膜下出血で倒れ術後の処置が悪くて、結局半身不随となり言葉を失った。様々な問題はそれなりに経験しながらも、なんとか穏やかにくらしてきたのだが、九月の初め 誤嚥性肺炎を起こして入院し、一旦は良くなりかけたものの完治せずそのまま病院で亡くなった。
妹から「危ない」と連絡があった時は夫の訪問入浴真っ最中で、その後も誰も来ない日だったので、看取ることはできなかったが、私以外の家族が揃うのを待って旅立ったそうだ。
夫が病気になってからはこちらの生活で精一杯で、実家からも足が遠のき、この1年ほどは全く行かれていなかったのだが、7月末にやっと久しぶりに訪ねて私の作った料理を母にも食べてもらったところだった。入院してからも数回は顔を見に行けたし、そもそも夫が病気になってからは、親に何かあっても行けないだろうと思い、訪ねる度に「これが最後かも」と思いながら「またね」と言ってきたので、立ち会えなかったことについてどうこうとも思うこともなく、20年続いた不自由な状態から母が解放されたことには、むしろ安堵の思いがあった。
それでも、「悲しさ」でも「寂しさ」でもない、何とも言いようのない胸のつかえと言うか、もやもやした思いがあって、それが何か見極められずにいた。そういう気持ちの整理をするのが、葬儀のプロセスなのだろうと思うが、日程の都合で、私は通夜だけの出席になった。クリスチャンになったとはいえ、子どもの頃から法事などの機会に繰り返し聞いてきたせいか、「修證義~」と方丈さんが言った途端に「生を明らめ死を明らむるは佛家一大事の因縁なり・・・」と出だしのフレーズが頭に浮かんだのにびっくりしたり、久しぶりに見る親戚の名前を思い出そうとしたりしているうちに通夜は終わり、姉、妹と棺を囲んで寸時話し、母に別れを告げた。
就寝前、ベッドメイクをしているとき、不意に涙がこぼれた。
もう母はいないという事実、それを寂しく思う気持ちというより、「不在」そのものが迫って来る感じで涙が止まらなかった。そうだったのだ。ずっともやもやしていたのは、「喪失感」というやつだったのだ。そのまま暫く一人で泣いた。そして涙が収まった時には、胸のもやもやは落ち着きどころを見つけていた。
人がこの世に生きた、目に見える証は子や孫の姿だと思う。
私は、顔が母にそっくりなのでそのまま母の生きた証なのだが、
中身でも母の良き遺産でありたいと思うのだ。
She had a bad stroke (subarachnoid hemorrhage) 20 years ago, lost speech and became mostly bedridden. She lived at home until early September when she developed pneumonia. She was taken to hospital where she died. I could not come to see her off, but I was ready for that ever since my husband was diagnosed with ALS.
I wasn't even sad at the news of my mother's death. Rather, I was relieved that my mother is finally free from all her difficulties. Still, I had some unsettling feeling in my heart that I could not put a name on.
When I came home from her vigil (I could not attend the funeral.) and was making bed for myself, I felt tears suddenly welling up. The fact that my mother no longer existed in this world struck me, and made me cry. I learned that it was her absence, or my sense of loss, was that strange feeling wobbling in my heart. After some crying, it was gone, and I felt I could go on, looking straight ahead.
It seems to me that children or grandchildren are the best visible legacy of someone's life. I look very much like my mother, so it's obvious that I'm the testimony that she lived.
But my wish would be to be her positive legacy not only for my appearance but for who I am.
Thanks and Goodbye, Mom.
先週、実家の母が逝った。
母は、20年前クモ膜下出血で倒れ術後の処置が悪くて、結局半身不随となり言葉を失った。様々な問題はそれなりに経験しながらも、なんとか穏やかにくらしてきたのだが、九月の初め 誤嚥性肺炎を起こして入院し、一旦は良くなりかけたものの完治せずそのまま病院で亡くなった。
妹から「危ない」と連絡があった時は夫の訪問入浴真っ最中で、その後も誰も来ない日だったので、看取ることはできなかったが、私以外の家族が揃うのを待って旅立ったそうだ。
夫が病気になってからはこちらの生活で精一杯で、実家からも足が遠のき、この1年ほどは全く行かれていなかったのだが、7月末にやっと久しぶりに訪ねて私の作った料理を母にも食べてもらったところだった。入院してからも数回は顔を見に行けたし、そもそも夫が病気になってからは、親に何かあっても行けないだろうと思い、訪ねる度に「これが最後かも」と思いながら「またね」と言ってきたので、立ち会えなかったことについてどうこうとも思うこともなく、20年続いた不自由な状態から母が解放されたことには、むしろ安堵の思いがあった。
それでも、「悲しさ」でも「寂しさ」でもない、何とも言いようのない胸のつかえと言うか、もやもやした思いがあって、それが何か見極められずにいた。そういう気持ちの整理をするのが、葬儀のプロセスなのだろうと思うが、日程の都合で、私は通夜だけの出席になった。クリスチャンになったとはいえ、子どもの頃から法事などの機会に繰り返し聞いてきたせいか、「修證義~」と方丈さんが言った途端に「生を明らめ死を明らむるは佛家一大事の因縁なり・・・」と出だしのフレーズが頭に浮かんだのにびっくりしたり、久しぶりに見る親戚の名前を思い出そうとしたりしているうちに通夜は終わり、姉、妹と棺を囲んで寸時話し、母に別れを告げた。
就寝前、ベッドメイクをしているとき、不意に涙がこぼれた。
もう母はいないという事実、それを寂しく思う気持ちというより、「不在」そのものが迫って来る感じで涙が止まらなかった。そうだったのだ。ずっともやもやしていたのは、「喪失感」というやつだったのだ。そのまま暫く一人で泣いた。そして涙が収まった時には、胸のもやもやは落ち着きどころを見つけていた。
人がこの世に生きた、目に見える証は子や孫の姿だと思う。
私は、顔が母にそっくりなのでそのまま母の生きた証なのだが、
中身でも母の良き遺産でありたいと思うのだ。
登録:
投稿 (Atom)