2014年12月8日月曜日

郵便投票

久々の更新。

うかうかしているうちに、師走。
そして、衆議院選挙である。

夫のように障害者だったり要介護度が高く外出できない人には
郵便投票という制度がある。

ALSの人でもこの制度を知らない人がいるみたいなのだが、
うちの場合は確か、区役所の人に窓口で教えてもらった。
前回総選挙になったときで、あの時も急に解散したからあまり時間がなかったけど、
選管の人ががんばって「郵便等投票証明書」をスピード発行してくれたので、
無事に郵便で投票することができた。

この「郵便等投票証明書」を持っている人は、選挙の都度、
投票用紙の申請書とこの証明書を同封して選管に送ると、
選管から投票用紙と返信用の封筒が送られてくるので、
用紙に記載して指定の二重封筒に入れ、外封筒に住所氏名を書いて、返送する。

投票用紙と外の氏名は自筆と決められていて、
それができない人は代理記載を認めてもらって行うことができる。
(上のリンクの下の方に詳しい説明アリ)

夫の場合、去年の参院選の段階で、一人でペンを持つのは難しかったので
この制度を使おうとしたのだけど、夫はいま「四肢1級」という障害で、
代理記載に該当するには「上肢1級」でなければならず、
障害の等級見直しの手続きは選管のようにスピード感がないので(通常1~2ヶ月)、
到底間に合わなかった。

次の選挙は2015年の統一地方選だから、それまで生きてたら手続きしようね、
と言い、そろそろ動こうか、と思っていたらこたびの解散である。

そもそも、「四肢」に「上肢」が含まれないのは日本語として変じゃないのか、
とか、ツッコミどころはいろいろあるのだが、法律をどうこういっても仕方がない。

当地の頑張る選管が、公示日前に申請書を送ってくれたので、
すぐに証明書とともに返送。
一昨日、投票用紙、候補者名簿、政党名簿一式が届いたので、今日記入して投函した。

ひと仕事終わってホッとする。

あとは、自分が投票に行くのを忘れないようにしないとね。





2014年11月5日水曜日

ぎんぶら

ヴァイオリンの弦や楽譜、来年のカレンダーを買いに、銀座へ。

久しぶりに東海道線に乗ったら、品川駅のホームの様子が変わっているし、
新橋駅も階段が付け変わってるし、世の中どんどん変化しているんだな。

まずどこかで腹ごしらえ、と思いつつ新橋から銀座通りに向かう。
銀座天國は美味しいけど、揚げ物は避けてるし、お値段も、
と思って通りすぎかけたら

「お昼天丼1,100円」

が目に入る。もう15時半だけど、まだやってるんだ。
この時間、ほかの店では美味しいものにはありつけないかも。。。
で、Uターン!



メニューには銀ブラにふさわしい、こういうのもあったけど



きょうはやめておく。

さて、目当ての音楽ショップに向かって歩き出すと
周りから聞こえてくるのは中国語ばかり。
次々と到着する観光バスから吐き出される中国人観光客が
大きなスーツケースをガラガラ引きずりながら
四方八方をスマホで撮影しながら
大声でああだこうだとしゃべりながら
あの広い銀座の歩道を占拠。
先日友人から聞かされてはいたけれど、これほどまでとは。

すっかり買い物気分が萎え、必要な買い物だけするモードになってしまった。

それでも1軒目のショップは静かだったこともあり、
久しぶりに楽譜をあれこれめくって小一時間過ごし、
銀座の華やかな雰囲気と、それとちぐはぐな観光客に気圧されながらもう1軒へ。






ここでしか扱っていない弦と来年の音楽カレンダーをゲット。
ここ数年、この雨田のカレンダーを買うのに出遅れていたので
今年は早く買えて満足。













そのまま有楽町から帰る手もあったけど、それだとまた乗り換えで歩くし、
まだ時間もあるから、美味しそうなコーヒーショップを探しつつ
また新橋方面に戻る。
郵便を出さなければいけなかったので、ポストを探すが見つからない。

と、あれ、今通り過ぎたのはポスト?



そうだった。。。なんでこんな色なんだ。。。
夜目に見たので紺色だと思ったら、
あとで調べたところ、これは「景観に配慮した緑色」
だそうだ。

夜の女性たちが着物姿、ドレス姿で出勤してくるのを横目に
観光客が入ってこなさそうなコーヒーショップで休憩。

 


きょうは普段避けているものを食べてしまったから
帰ったら野菜を補給しないと。

2014年10月14日火曜日

Goodbye, Mom. 母を送る

My mother passed away last week.
She had a bad stroke (subarachnoid hemorrhage) 20 years ago, lost speech and became mostly bedridden.  She lived at home until early September when she developed pneumonia.  She was taken to hospital where she died.  I could not come to see her off, but I was ready for that ever since my husband was diagnosed with ALS.
I wasn't even sad at the news of my mother's death.  Rather, I was relieved that my mother is finally free from all her difficulties.  Still, I had some unsettling feeling in my heart that I could not put a name on. 
When I came home from her vigil (I could not attend the funeral.) and was making bed for myself, I felt tears suddenly welling up.  The fact that my mother no longer existed in this world struck me, and made me cry.  I learned that it was her absence, or my sense of loss, was that strange feeling wobbling in my heart.  After some crying, it was gone, and I felt I could go on, looking straight ahead.

It seems to me that children or grandchildren are the best visible legacy of someone's life. I look very much like my mother, so it's obvious that I'm the testimony that she lived.
But my wish would be to be her positive legacy not only for my appearance but for who I am.

Thanks and Goodbye, Mom.


先週、実家の母が逝った。
母は、20年前クモ膜下出血で倒れ術後の処置が悪くて、結局半身不随となり言葉を失った。様々な問題はそれなりに経験しながらも、なんとか穏やかにくらしてきたのだが、九月の初め 誤嚥性肺炎を起こして入院し、一旦は良くなりかけたものの完治せずそのまま病院で亡くなった。

妹から「危ない」と連絡があった時は夫の訪問入浴真っ最中で、その後も誰も来ない日だったので、看取ることはできなかったが、私以外の家族が揃うのを待って旅立ったそうだ。

夫が病気になってからはこちらの生活で精一杯で、実家からも足が遠のき、この1年ほどは全く行かれていなかったのだが、7月末にやっと久しぶりに訪ねて私の作った料理を母にも食べてもらったところだった。入院してからも数回は顔を見に行けたし、そもそも夫が病気になってからは、親に何かあっても行けないだろうと思い、訪ねる度に「これが最後かも」と思いながら「またね」と言ってきたので、立ち会えなかったことについてどうこうとも思うこともなく、20年続いた不自由な状態から母が解放されたことには、むしろ安堵の思いがあった。

それでも、「悲しさ」でも「寂しさ」でもない、何とも言いようのない胸のつかえと言うか、もやもやした思いがあって、それが何か見極められずにいた。そういう気持ちの整理をするのが、葬儀のプロセスなのだろうと思うが、日程の都合で、私は通夜だけの出席になった。クリスチャンになったとはいえ、子どもの頃から法事などの機会に繰り返し聞いてきたせいか、「修證義~」と方丈さんが言った途端に「生を明らめ死を明らむるは佛家一大事の因縁なり・・・」と出だしのフレーズが頭に浮かんだのにびっくりしたり、久しぶりに見る親戚の名前を思い出そうとしたりしているうちに通夜は終わり、姉、妹と棺を囲んで寸時話し、母に別れを告げた。

就寝前、ベッドメイクをしているとき、不意に涙がこぼれた。
もう母はいないという事実、それを寂しく思う気持ちというより、「不在」そのものが迫って来る感じで涙が止まらなかった。そうだったのだ。ずっともやもやしていたのは、「喪失感」というやつだったのだ。そのまま暫く一人で泣いた。そして涙が収まった時には、胸のもやもやは落ち着きどころを見つけていた。

人がこの世に生きた、目に見える証は子や孫の姿だと思う。
私は、顔が母にそっくりなのでそのまま母の生きた証なのだが、
中身でも母の良き遺産でありたいと思うのだ。




2014年9月30日火曜日

ファンダンゴスがやってきた!

福岡を本拠地とするトリオ・ロス・ファンダンゴス(Trio Los Fandangos)が、先週から5日間の関東ツアーに来ていた。この人たち、別名「嵐を呼ぶバンド」である。ツアーの先々に度々台風などの荒天を連れてきたことがある。一度などは、台風と仲良くしすぎて自分たちの公演がキャンセルになってしまった。

今回も台風16号が、まるでTLFに合わせるかのように中国の方を回ってゆるゆると近づいていた

     


が、26日に甲府で共演したミユキ・タンゴのリーダーのパワーの方が優ったのか、台風は温帯低気圧となり、穏やかな好天の中でのツアーとなった。

5日間で8ステージという強行軍の中、最終日の29日横浜エアジンでのステージの前に我が家に立ち寄り、ライブに出かけることができない夫のためにホームコンサートをしてくれた。

     
     夫は身体は動かせないけれど、音楽も会話も楽しんで普通に暮らしているので、
      こんなふうに、「出てこられないならこっちが行くよ」と訪ねてきてくれる友人は歓迎だ。
      夫が病気になって間もない頃は、「ALS患者ってどんなもんだろう」という好奇心からか
      たいして親しくもなかった人が見舞いに来たり、「一度くらい見舞いに行かなければ」
      という義理から来宅したがる人があって閉口したものだ。

ミ・ブリンの冬ポンがエレピを貸して下さり、午後メンバーとともに車で運んできてくれた。
谷本さんはこの1年半ほどの間に3回来宅しているけれど、なおこさん、ケイトさんとは
前回の関東ツアー以来2年ぶり?
Facebookなどで近況を交換しているので、久しぶりという気がしない。
お約束の博多通りもんを頂く。
    
いつも夫とブエノスのタンゴラジオ番組を聞いて、スペイン語を訳してくれているY子さんも招き、
一緒にお昼を食べ、タンゴの話、なおこさんのお子さんたちの話、谷本家の猫の話など、
おしゃべりを楽しんだあと、いよいよ演奏。
ときどき「記憶スケッチ」状態になりながらも、みっちり充実した生音を8曲聞かせてくれた。

もしかすると、PAなし生音のTLFを聞くのは初めてだったかも知れない。
そしてこの至近距離。ぐんぐん音の力が身体の中に入って来る。
TLFは踊らせる演奏を本分としているのだが、それはすなわち「拍動を共有させる」ということではないか、と感じた。彼らの演奏を聞いたら、それに乗らざるを得ない。普段CD音源の踊り場で音と関係なく習ったステップを次々に繰り出して踊っている「つもり」になっている多くの御仁たちでも、この音を聞いたらちゃんと「踊る」のではないだろうか。(最近踊りに行けてないので確かめられない。。。)


楽しい時間はあっという間に過ぎ、メンバーは冬ポンの車でエアジンへ。
谷本さん、なおこさん、ケイトさん、冬ポン、特別な時間をありがとう!
私は後片付けをしてから開演時間に合わせて会場へ。
ボス・うめもとさんが、お弟子さんのフランス土産のおすそわけを下さる。

  

なぜかといえば、うめもとさんがFBにアップする美味しそうな頂き物の数々に
いつも私が恨めしそうなコメントを付けているから、哀れに感じてくれたのだ、たぶん。

エアジンは、私たちが最初にTLFを聞いた場所。その時夫が小型の録音機で取った音源が、
TLF3のCDのラストカットに使われ、その後私たちが福岡に彼らを聞きに行き、
と親しくなっていったのだった。

    ダンスの師匠のケンジ&リリアナさんに出会ったのも、同じエアジンでのライブで
     ブエノスで会ったダンサーやミュージシャンたちに共通するタンゴの心が
     ふたりにはある、と直感して、その後師と仰ぐことになったのだった。

エアジンのステージ、前半は歌手のKaZZmaによるギター弾き語り。
 
   
 
KaZZmaの歌は「ブエノスアイレスのマリア」でしか聞いたことがなかったので
楽しみにしていた。 歌はもちろん、ギターのボルドーナ感もよかった。
谷本さんのヴァイオリンも2曲絡んで、全部で10曲、熱唱。


後半はいよいよTLF。  
 
「3人で15人分」の触れ込みどおり、始めからガンガン来る。
エアジンのお客様、おそらくTLFが初めての方が半分ぐらいいらしたのではないだろうか。
その方たちがどんどん巻き込まれていくのが、最前列に座った私の背中に伝わってくる。
TLFは前回のブエノス行きで掴んだものを今春CD5にまとめており、
それは聞いていたのだが、目の前で演奏する様子を見ると、
身体の使い方が大きく変化しているのがわかる。
やはり3人とも踊るようになったからなのだろう。
だからこそ生まれる、踊り手、聞き手との一体感なのだと思う。
音楽は全身全霊で奏でるものだと、改めて思わされる。
我が家では「記憶スケッチ」だったVida Mia は譜面を出して(笑)ばっちり。
アンコールでは、KaZZmaと一緒に2曲、
そして最後に、私たちとの思い出のDerecho Viejoを演奏してくれた。

重箱にぎっちりつまった押し寿司のようなしっかりした演奏に
たくさんの元気をもらって、帰路に着いた。
TLF、KaZZma ありがとう!
 











2014年9月6日土曜日

paperwork, paperwork 更新手続き

ALS is one of the specified diseases in Japan, which means its patients are eligible for state subsidy to cover their medical costs.  You have to be officially recognized as a patient to receive subsidy, of course, and it involves a lot of paperwork.

Renewing the certificate has been rather simple--- as far as I can tell from my limited experience of the past couple of years--- but this time, it's a bit different, because the entire subsidy system has been changed.  The government decided to include more hard-to-cure diseases under its subsidy, while asking patients to pay part of their costs, rather than getting all the necessary medical service for free. 

The new system takes effect next January, and we are required to submit the renewal documents by Oct. 10.  But, because the state government is slow in finalizing the details of the system, local governments that actually handle the process, are unable to provide some necessary information such as what kind of document needs to be submitted when the patient is on respirator.  We are also required to submit copies of various documents and certificates.

I was hoping to prepare most of the stuff over this weekend, but it seems that I have to wait for some of the necessary documents to come.

Oh, well.


ALSは、いわゆる特定疾患、すなわち国の難病指定を請けている病気で、患者の医療費には国の助成がある。診断を受けたら、「特定疾患医療受給者証」というものを申請し、以後更新手続きをとる。

先に報道されたように、来年1月からこの特定疾患医療給付制度が変更になり、より多くの疾患を対象とする一方、これまで全額給付だった患者に一部負担を求めることになる。この変更のため、今回の更新手続きは、添付する書類の数が増え、記入する書類も増えて、いささか煩雑だ。
  
 
さらに、「事前に送付しているため、今回の封筒には入っておりません!」とされている書類がうちには届いていなかったので、電話したり(なかなかつながらなかったり)というトラブルもあった。

締め切りは10月10日だが、書類記入は間違ったりするといけないので、時間にゆとりのあるときにやりたいと思って、この週末ある程度めどをつけようと開いては見たものの、医師に書いてもらう書類に書かれているのと同じように、とか、住民票のとおりに、とか指示があって、そのどちらも今手元にないから書けない、とか、利用している医療機関のリストについても、その証明となる領収書のコピーなどを付けてそれに合わせて記入しなければならないのだが、普段支払いのないところからは領収書ももらっていないので、それも別の書類が届くのを待たねばならず、結局きょうはたいしてはかどらなかった。

病気の診断を受けた当初は、特定疾患のほか、介護保険やら、障害者認定やら、保険やら、書類仕事がものすごくたくさんあったので、逆にどんどん処理できたのだけど、このところはほとんどなかったから感じを忘れてしまっていたこともあり、今回はちょっと大変だなあ、と思っているところ。

2014年8月19日火曜日

結石騒動

先週、夫が尿道カテーテルにちょっと違和感がある、と言っていて、
尿量もやや少なくなっていたので気にしていた。
金曜日、朝のストレッチをしていると、脚を内側に寄せたりすると痛い、という。
姿勢を変えて痛い、というのはどういうことだろうと思いながら、痛くない姿勢をとるようにしていた。

日曜の朝、カテーテルチューブ内に血尿があり、パッドに脇漏れもしたようだ、
というので見てみると、かなりの血尿。やはりどこかに傷があるのか。
チューブの位置を探って触れていたら、するっとチューブが抜けてしまった。

本来このカテーテルは、先に風船のように膨らむ「バルン」というのがついていて、
その中に数cc水を入れて抜けないようにしているのだが、
なんらかの理由でこの水がぬけてバルンがしぼんでしまったため、抜けてしまったようだ。

とりあえずパッドで対応することにして、ここまでの状態を主治医にメールで報告。
朝食の準備にとりかかろうかと思ったら、また排尿があったというのでパッドをチェックすると、
パッドの上にこんなものが。

  

???

キャットフードのカリカリ?いや、こんなところにあるわけはない。
え、何これ?

触れてみると硬い。
もしかして、これが結石というやつか!

測ってみると直径7mmくらいあるではないか。
これではカテーテルが入っている状態ではどこからも出るわけがないから、
カテーテルが抜けたことで石も出て、ひどい痛みを起こしたりすることもなく済んだ、
ということのようだ。

石ができて、カテーテルが押されて破損したのか、
カテーテルが破損して位置が動いてしまったために、石がへんな場所に入って育ってしまったのかわからないけれど、とにかく体への負担はかなり少なく解決できたようでよかった。


ALSで身体が動かせない状態というのは、動けないことそのものの不自由もあるのだが、
それに伴ってさまざまな身体のトラブルが起きてくるということでもある。

結石も、立って動いていれば小さいうちに流れてしまうものが、
ずっと横になっているために大きくなってしまうと思われる。

実際、夫も仕事に行かなくなってひと月くらいたったころに、
夜中にひどい腹痛を起こし、救急車で病院に行ったことがある。
その時は、石は見つからず、結局結石だったのか憩室炎だったのかわからなかったのだが、
それ以降、尿道カテーテルを使うようになったのだった。

カテーテルを留置していると、それそれで今度は感染の心配があったり、
それに対応する抗生物質をあれこれ試したりと、これまでもいろいろあった。

今年に入ってからはほとんど問題なく過ごせていたので、
今回の結石にはちょっとびっくりだった。

2014年8月3日日曜日

真夏の障子張り

親の家に住んでいたころは、障子張りは私の仕事だった。
小学生のころははがして枠を洗うところまで、紙は母が張っていたが、
中学くらいからは見て覚えたやり方で、一人で全部やっていた。

思い返せば、はがすタイミングも自分の好きなときにやって、母が夜遅く張る羽目になったり、
糊を煮ていてなべを焦がしたりしたこともあったけれど、
母にそれで小言を言われたことはなかった気がする。

今の家には和室は一間。ベランダ側の大きな窓2枚と、裏に面した腰高窓2枚だから、
大したことはない。手順も慣れているから、やろうと思えばすぐなのだけれど、
夫の病気のこともあり、時間がなく、おととし、去年と、年末の張替えはできなかった。

そうこうしている内に、腰高窓の一マスがぺらぺらと浮いてきて、
いよいよまずいことになってきたので、いよいよ張り替えることにして障子紙と糊を買ってきた。

梅雨明け前の涼しいうちにさっさとやっておけばよかったのだが、
なかなか時間が取れないままに先週になり、
金曜日に決行することに決めた。

朝起きると、猛暑。
和室にエアコンはない。張った障子に汗が落ちては元も子もない。
さらに、リビングから運び込んだテーブルやら、夫が使っていた風呂用の椅子やら、
所狭しと物が置かれていて、張り替えるスペースも、厳しい。

やめようか、と、一瞬思ったけれど、
腰高窓だけ何とかやってみることにした。

二階の踊り場に新聞紙を敷き、はがし始めて気づいた。
そうだ、昔どおりに一段ずつ張り替える方式にすれば、
立て掛けるスペースがあれば張れるのだった。
しかし、既に一枚ものの紙を買ってあるし、何と言っても手間が少なくて楽だ。
これでいくしかない。

和室に置かれたものを寄せて、なんとか枠を寝かせるスペースを作って作業。
テープで紙を仮止めしてから糊を置き、一気に張る。
2枚目のとき、張る段になって仮止めのふちを引っ掛けてしまい、やり直しになったけれど、
なんとか完成。

結構手際よくできたので、勢いで大きいほうもやろうかと思ったけれど、
この暑さの中無理は禁物。もう少し涼しい日に送ることにして、
ぺらぺらが解消されたことでよしとした。

以前うっかり閉じ込めた静の爪あとがついたほうは、いつやろうかな。。。