2017年7月31日月曜日

7月(長文注意)

なんだか7月は早く過ぎた気がする。
いろいろ考えさせられることもあってブログに書きたいなあと思っているうち
にもう月末だ。

17日の祝日はミロンガに行こうかと思ったけれど、どこも遅刻か早退になってしまう感じで、
そういうのがちょっと気が進まなかったので、丸の内に「レオナルドとミケランジェロ」を見に行った。素描を中心に同時代に活躍した二人の巨匠を対比する展覧会。祝日とはいえ展示の性格ゆえかひどい混み方ではなくじっくり作品を鑑賞することができた。



レオナルドもミケランジェロも「天才」と言われるけれど、
天才とはやはり努力することにおいて天才なのだと改めて感じ入るほどに
二人の素描の徹底ぶりは並外れていた。「なにごとも基礎が大事」とはよく言うし聞くけれど、
実際に彼らが生み出してきた作品群(モナリザとか最後の晩餐とかシスティーナ礼拝堂天井画とかダビデ像とか)を思うとき、その影に膨大な素描があったことを想像し本当に圧倒された。


折しも大相撲では白鵬が前人未到の勝ち星記録を更新し、この人も相撲の基礎
である「四股・すり足・テッポウ」を今でも欠かさず丁寧にやっていると伝え
られる。タンゴで基礎と言ったらやはりカミナータ、ヴァイオリンなら開放弦とスケールだろう。さて我々通訳者が
日々続けるべき基礎演習は?


26日は相模原の障害者施設での殺傷事件から1年ということで、この前後メ
ディアでも特集報道が続いた。地元県内の事件だしその後のことも地元紙が継
続的に伝えているのでより身近に感じている事件である。
障害者に関わることでいつも思うのは、私が子どもの頃に比べて障害者福祉が
制度的には整備されたものの、その他の人々から切り離されてしまっている、
ということだ。普段の生活の場を共有していればお互いの個性として認め合え
るはずのことが、見慣れない別の世界の人同士になってしまったり、一方的に
何かを与える人受ける人、という関係になってしまうことで、差別やヘイト行
動に繋がっているのではないか。
もうひとつ気になるのは、「障害者は不幸だ」と決めつけた加害者のことばを
発端とした「幸か不幸か」の議論だ。人が生きているって、幸せだったり不幸
だったり、どっちでもなかったり、いろいろじゃないのか?それに、傍から見
てある人を「幸せ」というとき、その幸せの元になっている要素も別の角度か
ら見れば不幸だということもあろう。例えば皇太子妃雅子さん。暮らしの心配
がないことは多くの人からすればとても幸せに見えるだろう。しかしどこかの
大統領のように好き勝手にツイッターで物をいうこともできない、ちょっとコ
ンビニまでお散歩することもできない、そんな暮らしを安定した生活と引き換
えて「幸せ」と思う人もあるかもしれないが、不幸だと思う人もいるだろう。
ご本人がどう思っているかは知らない。幸か不幸か、そんなことを言っても意
味がない、だって代わりはいないのだから、とでも思っていらっしゃるか。
なんにせよ、それぞれ、なのだ。障害者は周りを不幸にするか、いやそうでは
ない、とか部外者が言うことでは、ないとおもう。ひとりひとりの命を同じよ
うに尊重する、それだけだ。

20年以上前になるが、ACCアジア教会協議会の障害者の会議に出席する機会があった。その中で「神は自らに似せて人を造ったというが、私たちは違うのか」という切実な問いかけをした参加者があった。足の萎えた私、見えない私、腕のない私は神に似ていないのか。その少し前の議論で、医学がどれだけ進歩しても、社会における障害者の割合は変わっていない、という話が出ていたのを私は思い出して、こう言った。ここで聖書が言っている「人」というのは個人個人ではなくて人間全体のことなのではないか、そして一定の数の障害者が含まれている人間社会というのが神が造られた「人」の姿なのではないか。
私の解釈にみんなが同意したわけではなかったが、あながちそう的外れでもないのではないかと思っている。望ましいのは自分の交友関係の中に1割からの障害者が含まれていることなのだが、自ら求めていかないとなかなかそこに至らないのがいまの隔離社会だ。普通にみなが肩を並べて暮らせる社会であってほしいものだ。


29日、NHK-BSで近衛秀麿が戦時中のヨーロッパでユダヤ人音楽家の亡命を助
けていたのではないか、という謎を追う番組があった。杉原千畝は外交官としてビザを発給することでユダヤ人を助けたから、その行為の証拠も残っているわけだが、秀麿に限らずユダヤ人を支援した様々な国の人々はその証拠を残さなかったし、戦後も多くを語らなかったから実際どれだけの人がそのような働きをしたか、またそのために命を落とした人がどれだけいるか、どのくらいのユダヤ人が助けられたのか、おそらくは永遠にわからないのだろう。番組でも詳細なことは結局わからなかったという結末だった。秀麿の行為は、ノブリス・オブリージェであったり、文麿の弟として自らの音楽を政権に利用されるのならば自分もその立場を利用して音楽を助けようという気持からだったりしたのではと想像する。いずれにしてもその背景にあったのは、なんの罪もない人々の命が理不尽に奪われていったという悲惨な歴史である。
先月、「ローマ法王になる日まで」というフランチェスコ法王の若き日を描いた映画を見た。70年代後半から80年代前半、軍政下のアルゼンチンで国家テロにより多くの国民の命が奪われた「汚い戦争」のことは知識として知っていたが、拷問や睡眠薬を注射して飛行機からラプラタ川に落として殺す様子が映像化されたものを見て、その理不尽さに胸が苦しくなった。
何の咎もない人が謂われなく突然殺される。考えてみればそれは何も大戦中や軍政下のアルゼンチンだけの話ではなく、いまもシリアで、イラクで、南スーダンで起きていることなのだ。


アルゼンチン、相模原事件、ユダヤ人迫害、
気づけば今月は無辜の民、理不尽に命を奪われた罪のない人々のことをずっと考えてきたなあ。8月前半はまた先の大戦の報道を振り返る番組があるだろうから、もうしばらく思い巡らすことになるだろうか。

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