昨夜のラジオ深夜便に、考古学者の吉村作治氏が出演していた。
曰く
お金は使うものだと思っているのです。だから使うために稼ぐ。
ただどんどん稼いで、それをどうしましょうって言うのは間違っていると思う。
などなど、興味深い発言がいろいろあったのだが、中でも私の興味を引いたのは、
考古学上の吉村氏の発見業績についての聞き手の天野祐吉氏とのやりとりである。
天野氏が、世界的な発見も二つや三つあるでしょうと言ったところ、
吉村氏は一つ一つ経歴をたどり、「世界的」と言えるものだけで五つあると説明した。
天野氏が「二つや三つなんて、失礼しました」と謝ると、吉村氏は、
いいんですよ、二つ三つでも五つ六つでも十でも
複数ですから
と引き取ったのである。
私は中東の言語は知らないが、英語やスペイン語、フランス語の名詞では
明確に単数形と複数形がある一方、日本語では同じような形での複数形はないため、
話題にしている「それ」がひとつなのか二つ以上なのかわからないと表現できない、
という事態に度々遭遇する。
かつて「歳末助け合い始まる」というニュースを書いていた時、
「銀座の某ビル脇に作られた『愛の泉』に硬貨が投げ入れられると
ペンギンの人形が踊る」というくだりがあり、
「ペンギンは何羽ですかあ?」と担当者に問い合わせたことがあった。
異なる言語間のそうした違いについてはいつも意識しているわけだけれど、
その言語を使う人の意識と言うか感覚と言うか、
そういうものはあまり気にしていなかったことに、吉村氏の発言で気が付いた。
つまり、彼らは
「それが幾つか」より
まず「それが単数か複数か」
を意識するのだろうか
と言う点である。
私自身は日本語を母語としているわけだが、数詞は平等に意識している気がする。
単数か複数か、は少なくとも、「まず」意識する事柄ではないと思うのだが。。。
このテーマ、どこかで書かれている話かもしれない。
私の中では昨夜関心が湧いたばかりのことで、もうしばらく考えを遊ばせてみよう。
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