去年夫が難病のALSと診断されて間もない頃、そのことをある友人に話したところ
「なにかできることがあったら言ってね。
グチならいつでも聞くから。」
と言われた。
ふーん、それtって、私は今、グチらなきゃいけない状況だってこと?
なんか、違うけど。
別の友人はこう。
「大変だと思うけど、時には気晴らしも必要だから、お茶しましょうね。」
気晴らしって・・・私は気が滅入ってるはずってこと?違うけど。
そういうことが何度か繰り返されるうちに思い至った。
そうか、みんな、「病気=不幸」だと思っているのか!
なるほどね、だとすれば愚痴も出るだろうし、不幸な生活から目をそらしたいこともあるかもね。
でも、私も夫も、「病気」は「病気」であって、「元気」でないかもしれないけど、
「不幸」だとも思っていないので、「病気=不幸」と思う人とはそもそもの前提が違っていて
話がかみ合わなかったのだ。
こういうことを言う人に限って、その後積極的に連絡をしてくることもなく、
なんだかなあ、普通に話できないのかなあ、そう思うのは変なのかなあ、
と思っていたとき、。
「モリー先生との火曜日」という本の中のフレーズに目が留まった。
「モリー先生との火曜日」はALSになった大学教授の元に
かつての教え子(ジャーナリスト)が通って、「最後の授業」を受ける
というノンフィクションで、90年代大ベストセラーになった。
私はこの本のことは知っていたが、読んだのは夫がびALSになってからだ。
私がアメリカに住んでいた時周りにいた人々はそうではなかったので気づかなかったのだが、
「モリー先生」を読んでみると、アメリカでも大概の人が、病気を「不幸」ととらえ、
患者は社会からフェードアウトするだけの人、とみなして、離れていく人が多く
モリー先生の周辺も例外ではなかったことが分かる。
それに対してモリー先生はこう言う。
本当に心にかけているなら、
普通に話しかけたり訪ねたりするはずだ。
だよね、だよね、だよね!
わが意を得たり、だった。
確かにこの病気は身体が動かなくなっていくから、今までできたことができなくなる。
それはそれでもちろん大変なのだけれど、原因不明の病気について、
「どうしてこんなことに」と嘆いても始まらないし、
医学が進歩しても、10万人に2人乃至3人、という出現率が変化していない、
ということは、この病気はこの世界に必ず存在しているもので、それがたまたま夫にあたった、
というだけのことだ。(まあ、それよりジャンボくじに当たってみたいものではあるが。)
そもそも「生きる」とは「死に向かって一歩一歩近づいていく」ことであり、
「その日その時を、ただ、神が知る」ということは、誰にとっても平等な真実だ。
病気になったからと言って、この真実が変わるわけでもなく、
その意味で私たちは以前と変わらず、この真実を見つめながら普通に暮らしている。
そんな様子を見て理解に苦しむ人もいるみたいだけど、
同じように普通に暮らしている人たちはいて、普通に、話しかけたり訪ねたりしてくれるから、
「病気=不幸」と思ってる人たちの方が、もしかすると「不幸」かもしれない、と思ったりする。
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