夫が亡くなって、まず思ったのは
ひま
ということ。
急に日々の生活のリズムを変えるのは良くないと思って、基本的に同じスケジュールで暮らしていたのだけれど、これまでは、午前3時くらいに寝て9時くらいに起きて、猫の世話、夫のケア、洗濯などして、自分の朝食は昼12時ころ、だったのに、夫が亡くなってしまったら、10時半にはやることがなくなってしまうのだ。
夜も寝る前に月間文芸誌の連載小説を、せいぜい2分の1回分ずつ(時間にして7~8分)読むのがささやかな楽しみだったのだが、まるまる1回分読んで、コラムまで読んでも、寝る時間が以前より1時間早いという。。。
ああ、世の中の人は、みんなこんなに余裕がある生活をしていたのか。
諸々の事務処理などやることはあっても、毎日秒針を見ながら「いまやらなければ」と追いまくられていたの比べれば、せいぜい数日のうちにやればよいことなど、急ぎでも何でもない。遺品の整理など時間を要するものはなにも慌てて手をつけることもないし、ふと目に付いたものをその都度片付けて、少しずつ「病室」だったリビングを本来の形に戻していったり、そもそもひと月くらいはインフルエンザの余韻を引きずっていたこともあり、ゆるゆると波間をたゆとうがごとくに過ごす。
ぽっかりと空いたのは時間だけではない。
「心にぽっかりと穴が開く」という表現があるけれど、まさにそれだ。
身体の中心にまん丸の球状の空洞を抱えているような、そんな感じなのだ。
外側だけで、「表面的に」暮らしていくことはできるけれど、玉乗りをしているようなものだからすぐバランスを崩して転んでしまう。
それに、夫婦は一体、夫が病気になったのは自分の半分が病気になったのと一緒。
いろいろケアしなければならなくなったといっても、それは自分とは別の誰かの為にやっていることではなく、自分の半分が必要なことだから当たり前のこととしてやってきたこと。その半分が突然なくなってしまったことで、文字通り身体が半分どこかに行ってしまった感覚で、どうにもバランスを取れない感覚がずいぶんと続いた。
暇な時間にしても、心の空洞にしても、なにか別なことで埋め合わせよう、というのは申し訳ない気がするし、それ以前に「夫を生かしておくことと自分が倒れないこと」だけが肝心で、それ以外のことはもはや意味のないこととして放り出してしまったから、それらを再び取り上げる気にならない。また、新しいことに手を出す気力もなかった。
仏教ではだいたい四十九日くらいに納骨をして、各方面への挨拶状を出したりするのだろうけれど、キリスト教ではそういう決まりはないから、どうしようか、と思っていた。
今年は4月1日がイースターで、夫が亡くなった翌週からその準備期間のレント(悔い改めの期間)に入るので、じゃあ、イースターを区切りにしようか、となんとなく思いついた。連絡のリストなどを作っていて、ふと数えてみたら、それが丁度四十九日だったのでびっくり。クリスチャンでない親戚筋などに挨拶するにも絶好のタイミングじゃあないか!なんと好都合な。前項で書いた葬儀のことといい、やはりこのタイミングしかなかったのかな、と思わされた。
だからといって、やはり私が死なせてしまった、という思いが消えるわけではなく、それとどう付き合って行こうかと毎日思いを巡らせてしまうのだ。
自分で決めた一区切りがイースターだったけれど、その日を過ぎてもまだ答えは出ていなかった。
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