6月13日、父の通夜から戻ると、留守を頼んでいたナースが
夫が熱があるようなので、抗生剤を始めておいたほうが良いと思う、
ドクターには報告しておくので、と言う。
夫は尿道カテーテルを使用しているため、時たま感染で発熱することがあり、
抗生剤は常備しているので、さっそくそれを夕食後の薬に加えた。
その後熱が38.9度まで上がったので解熱剤も投入して寝む。
翌14日、大汗かいて熱は下がり、尿量が少なかったりしたのも夕方までに改善し、
もう大丈夫だろうと思いつつ、その間4回着替えたものをせっせと洗濯。
夜はシーツも替えて、今夜は気持ちよく寝られるといいね、と話していた。
ところが私が寝ようとした午前3時、夫は寒気がすると言い出し、
布団を掛けたりしたものの、心配なのでソファで横になった。
朝までたびたび、水分補給やら、酸素を測ったりやらしていて、寝られたのは1.5時間ほど。
15日朝になっても熱が下がらず、酸素飽和度も下がっていたので、
呼吸器に酸素を流してみたが、思ったように上がってこないので、Dr.に往診を依頼。
尿に白血球が出ていたり、脇腹が張って痛みがあるので、
腎盂腎炎を起こしている可能性もあるとのことで、
通常3回に分けて服用する抗生剤を一括投与し、尿の培養検査をすることに。
その後、熱は下がったものの、腕から手の甲に汗をかいていること、
尿がミルクティーのように濁っていることという、今まで見たことのない所見があったので、
夫は大丈夫と言っていたけれど、寝不足でもあるし、仕事は休むことにした。
午後、訪問看護師が来たので2階で横になったら2時間寝てしまったていた。
降りてみると、感染性ショックが心配なので、先生を呼んでいます、と言う。
酸素飽和度と血圧がかなり下がっていたらしい。
改めて往診の結果は、敗血症の疑い。点滴の抗生剤を投与して、これが効けば、という。
効かなかったら、危ないのか?
本人は大丈夫だよ~、と言っているし、私も楽観的ではあったのだけれど、
一応妹だけには連絡してみたら、様子を見に来てくれた。
夜、経過を診にDr.が来る。やはり血圧が低く、ショック状態で、救急で運ぶ状態だと言う。
うちでは何があっても病院には行かない、と決めているし、
そのことは在宅療養に関わるスタッフ全員で共有しているはずなのに、
なぜまた、病院を持ち出すんだろう、とちょっとイラっと来る。
クリニックで手持ちの薬剤に限りがあるとか、いろいろ都合もあるんだろうけれど、
今が治療を急ぐ時なら、わかりきったことをまた聞かないでほしい、と思う。
血圧をモニターしながら、昇圧剤を少しずつ注射、さらにステロイド剤点滴でなんとか持ち直し、
昇圧剤の継続点滴をセットして、Dr.が引き上げたのが深夜0:30だった。
夫の様子を気にしながら、またソファで仮眠。
16日朝8時にDr.来訪。
抗生剤の点滴をし、血圧が上がっていて、尿も出ているので、快方に向かっているとのこと。
11時に同じクリニックの若先生が来るということなので、10時まで自分のベッドで休む。
若先生が来た時は、血圧も100以上になっていたので、ストップしていた内服薬や栄養を再開し、昇圧剤の点滴も普通のリンゲル液に替えて・・・としたところで、血圧急降下!
点滴に入っていた昇圧剤は、ダイレクトに作用するタイプのものだったので、
回復していたのは、それに頼ってのことだったのが判明。
これは身体の脱水がまだ続いている状態なので、急速輸液が必要。
点滴を全開にするも、これでは遅すぎる!と、
点滴液をシリンジにとってシリンジから押し込む策に出る、若先生の好判断で70台まで回復。
この日は訪問入浴だったけれど、お風呂は無理なので清拭をしてもらい、
その間血圧はなんとか70台をキープして終わり、
夜8時にDr.が来てくれたときは、80台後半まで戻っていた。
一応落ち着いて来たので、夜は2階で寝ることにしたのだけど、
朝8時には点滴を付け替えなければならず、起きられるのか不安。。
17日、点滴は続けているものの、全体的には落ち着いてきたようなので、
午後訪問看護が入ったところで、今度はさのすけを動物病院に連れて行く。
便秘である。このところのストレスが、さのすけにも伝染したのか?
うちの近所には2軒動物病院があるのだか、どちらも私が行ける午後の早い時間は休みのため、車で20分ほどの別の病院に行く。寝不足で運転は辛いが、しかたがない。
一旦帰って、夕方マッサージの人が来たところで、買い物と食事に出る。
うちには手首式の血圧計しかなかったので、上腕式の血圧計を買ってきて、ちょっと安心。
18日、だいたい復調、のはずが、今度は痰が取れなくて酸素飽和度が77とか出るし、
血圧が150台に跳ね上がるしで、カフアシストしたり、スクィージング、タッピングと、
点滴が繋がってる中でやるもんだから、もう大変。
もともと、血圧は高めで薬を飲んでいたのだけれど、
今回のことで中断していたところ、体調の回復とともにまた上昇傾向になったのでは、
ということで、血圧の薬を再開。
できるだけのことはして、どうしても取れないところはDr.とナースに任せて、
この日は仕事に行った。
帰ってきたら、すっきりしていたみたいで、それはよかったのだけど、
ナース達が使ったものが出しっぱなし、開けっ放しがいくつもあって、がっかり。
さらに、今頃になって点滴についての注意書きがテーブルの上に置いてある。
こういうものは3日目じゃなくて初日にいただければもっと有益だったでしょうね。
寝不足とイライラも極限である。
19日、感染症を起こしていた菌が特定され、抗生剤が変更に。
これまでのとは薬剤の合わせ方も変わって、ちょっと神経を使う。
この頃になると、輸液によるむくみが問題になってきたので、今度は利尿剤を使うことに。
体力の回復の為に栄養価を上げるため、通常の経管栄養に牛乳や卵などの追加を考える。
そんなこんなで、きょう27日現在、抗生剤の点滴は続け(あすまで)、
栄養強化は継続、投薬は最低限必要なものだけ再開、という対処で、
血圧は薬を使わず平常値、酸素飽和度、脈はまあまあ、というところ。
今回のエピソードが始まってからずっと声が出にくくなっていたのだけれど、
たぶん、それは脱水のせいだったようで、24日くらいからまた出るようになってきて、
おおよそ、以前の生活が戻ってきている。
ALSという病気はそれ自体「よくなる」ということがない病気だけれど、
それに伴って起きてくるトラブルは多々あり、その都度解決法を探しながらやってきたけれど、
今回はかなりシビアだった中で「よくなる」というシーンを見られて良かったと思う。
まあ、なにごともなく、淡々と、というのが本当は望ましいのだけれど。
2015年6月27日土曜日
2015年6月17日水曜日
Birthday 2015
(English text below.)
近年誕生日は、誕生日が近いタンゴ友Tちゃん夫妻といっしょに
ポルトガル料理なぞ食べに出かけて祝っていた。
夫が外出できなくなってからは、タンゴ仲間と家で餃子会をしているのだが、
今年は、Tちゃんが出産後間もない、ということもあったが、
それ以上に、なんとなくその気になれなかったので、
格別に行事は計画していなかった。
それはなにかの、「虫の知らせ」ってやつだったのか。
誕生日の早朝、妹から電話。
父が心停止となり、近所の病院に運んで処置中、と言う。
瞬間、思考停止状態になり、
きょうはナースが来るのが14時半だから、それまで出られないと思う、
また連絡する、と言って電話を切る。
階下に降りて夫に話すと、今、行ってくれば、と言う。
時計を見ると7時、普段夫の朝のルーティンは10時ころからだから、
夫がいつもどおり寝て待っていてくれれば、行ってくる時間はある。
幸い夫の体調はよかったので、出かけることにし、
妹に「今から支度して向かう」とメール。
そこらに出ていた服を身に着け、BBクリームだけ塗って家を出た。
車を出すときに妹からメール。
ダメだった
そうか。
カーオーディオから流れてきたのが、谷本仰 Solo Dialogues なのがありがたい。
病院に着き、処置を待つ間妹と話す。
どうも週末から体調を崩していたようで、痛み止めのせいでふらつくと言って、
妹の助けを借りて朝トイレに行き、妹が待ち構えていた車椅子に座ったとたん、
様子がおかしくなり、妹は心マッサージをしながら救急車を呼び、搬送したのだそうだ。
もともと心臓弁にトラブルを抱えていたところに、肺炎を起こし、力尽きたのだろう。
結局蘇生することはなかったけれど、
たぶん、一番びっくりしたのは本人だったのではないだろうか。
霊安室で会った父は、「あれ?来てたの」とうたた寝から起きそうな顔をしていた。
とりあえず、父を家に連れて帰らなければいけないのだが、
病院では、葬儀社を紹介することもできるし、
処置室から霊安室への移動を担当する葬儀社は、月ごとに交代で、
きょう入っている業者に頼んでも構わない、
もちろんもう決まっている場合はそちらに頼んでもらっても良い、という話だった。
妹と、去年母の葬儀をしてもらったH殿でいいよね、と話したのだが、
妹のスマホにH殿の電話番号の登録が、ない。
霊安室で待っていた、「今月担当の葬儀社」の人にこちらの意向を聞かれ、
H殿にお願いしようかと思ってるんですが、と言うと
「あ、そこに入ってるのがうちです!I橋です!」
スマホをいじる妹。。。 あ、あった、I橋で入れてたんだ。。。
来ていた人は別の支店の人だったので、連絡をとってもらい、
去年担当してくれた、I橋ではダントツだという女性が、
今回も担当してくれることになり、先週の土日で、無事葬儀をすませることができた。
母が亡くなった時は、妹から「危ない」と連絡をもらったのは、
火曜日午後の夫の訪問入浴の真っ最中で、
その後の時間帯も誰も入らない日だったから、病院に行くのは諦めたのだが、
姪のひとりが駆けつけるまでもたせたので、亡くなったのは夜になってからだった。
それならそこだけ、行けばよかった、と後悔したし、
その後も実家に行ったのは湯灌も済ませて、母の顔も作ってしまったあとになり、
私は一体何をやっているんだ、と、思った。
夫の病気のこともあり、親の死に目にはあえないだろうとは思っていたし、
実際、父のときも間に合わなかったのだけれど、
少なくとも今回は、人並みに知らせをもらって駆けつけ、
葬儀までの間も、実家で過ごす時間を持つことができたから、
気持ちは随分楽だった。
父は先週、母の遺したものの後始末を終えたところだった。
自分が逝ったあとのことまでは手がまわらなかったものの、
区切りをつけ、ほっとして逝ったのだろうと思う。
自分の父(私の祖父)も、同じ歳で亡くなったのが32年前の5日前だったことも、
意識のどこかにあったのかもしれない。
私は、性格ー特に欠点ーが父に似ているために、父が苦手で、
たぶん向こうもそうだったと思う。
だから、私たちは決して親密ではなかった。
それでも亡くなってみると、思い出すのは父の立派だったところ、
自分があれこれ楽しむことよりも、人助けを喜んでいたことなど、
長所と言えるところだ。
今年は戦後70年と言われるたびに、
父があまり話そうとしなかった戦争中のことを、一度聞いておきたいと思っていたのだが
それは叶わなかったのがひとつ、心残りだけれど、
いまは、先に逝った母に、
「え~?もう来たの?」
と邪険にされていなければいい、と思うのだ。
My father somehow chose my birthday last week to die.
Maybe it's for me to remember the day. (In Japan, the day of death is more important to remember than one's birthday.)
He had heart problems for many years. He suffered pneumonia over the weekend, and apparently his heart gave in just after my sister took him to bathroom in the morning.
I was never close to my father, largely because I inherited his shortcomings, and I hate to find them everytime I saw him.
In order not to disrupt my husband's daily routine, I only attended the vigil and missed the funeral ceremony. Still, I could spend more qualify time with my family over last week than when my mother passed away last October.
My father just finished dividing what my mother left among us, so he must have felt relieved as he went to her side even though he didn't finish taking care of what he was going to leave behind. We only hope that my mother is not too surprised at his joining her so soon.
近年誕生日は、誕生日が近いタンゴ友Tちゃん夫妻といっしょに
ポルトガル料理なぞ食べに出かけて祝っていた。
夫が外出できなくなってからは、タンゴ仲間と家で餃子会をしているのだが、
今年は、Tちゃんが出産後間もない、ということもあったが、
それ以上に、なんとなくその気になれなかったので、
格別に行事は計画していなかった。
それはなにかの、「虫の知らせ」ってやつだったのか。
誕生日の早朝、妹から電話。
父が心停止となり、近所の病院に運んで処置中、と言う。
瞬間、思考停止状態になり、
きょうはナースが来るのが14時半だから、それまで出られないと思う、
また連絡する、と言って電話を切る。
階下に降りて夫に話すと、今、行ってくれば、と言う。
時計を見ると7時、普段夫の朝のルーティンは10時ころからだから、
夫がいつもどおり寝て待っていてくれれば、行ってくる時間はある。
幸い夫の体調はよかったので、出かけることにし、
妹に「今から支度して向かう」とメール。
そこらに出ていた服を身に着け、BBクリームだけ塗って家を出た。
車を出すときに妹からメール。
ダメだった
そうか。
カーオーディオから流れてきたのが、谷本仰 Solo Dialogues なのがありがたい。
病院に着き、処置を待つ間妹と話す。
どうも週末から体調を崩していたようで、痛み止めのせいでふらつくと言って、
妹の助けを借りて朝トイレに行き、妹が待ち構えていた車椅子に座ったとたん、
様子がおかしくなり、妹は心マッサージをしながら救急車を呼び、搬送したのだそうだ。
もともと心臓弁にトラブルを抱えていたところに、肺炎を起こし、力尽きたのだろう。
結局蘇生することはなかったけれど、
たぶん、一番びっくりしたのは本人だったのではないだろうか。
霊安室で会った父は、「あれ?来てたの」とうたた寝から起きそうな顔をしていた。
とりあえず、父を家に連れて帰らなければいけないのだが、
病院では、葬儀社を紹介することもできるし、
処置室から霊安室への移動を担当する葬儀社は、月ごとに交代で、
きょう入っている業者に頼んでも構わない、
もちろんもう決まっている場合はそちらに頼んでもらっても良い、という話だった。
妹と、去年母の葬儀をしてもらったH殿でいいよね、と話したのだが、
妹のスマホにH殿の電話番号の登録が、ない。
霊安室で待っていた、「今月担当の葬儀社」の人にこちらの意向を聞かれ、
H殿にお願いしようかと思ってるんですが、と言うと
「あ、そこに入ってるのがうちです!I橋です!」
スマホをいじる妹。。。 あ、あった、I橋で入れてたんだ。。。
来ていた人は別の支店の人だったので、連絡をとってもらい、
去年担当してくれた、I橋ではダントツだという女性が、
今回も担当してくれることになり、先週の土日で、無事葬儀をすませることができた。
母が亡くなった時は、妹から「危ない」と連絡をもらったのは、
火曜日午後の夫の訪問入浴の真っ最中で、
その後の時間帯も誰も入らない日だったから、病院に行くのは諦めたのだが、
姪のひとりが駆けつけるまでもたせたので、亡くなったのは夜になってからだった。
それならそこだけ、行けばよかった、と後悔したし、
その後も実家に行ったのは湯灌も済ませて、母の顔も作ってしまったあとになり、
私は一体何をやっているんだ、と、思った。
夫の病気のこともあり、親の死に目にはあえないだろうとは思っていたし、
実際、父のときも間に合わなかったのだけれど、
少なくとも今回は、人並みに知らせをもらって駆けつけ、
葬儀までの間も、実家で過ごす時間を持つことができたから、
気持ちは随分楽だった。
父は先週、母の遺したものの後始末を終えたところだった。
自分が逝ったあとのことまでは手がまわらなかったものの、
区切りをつけ、ほっとして逝ったのだろうと思う。
自分の父(私の祖父)も、同じ歳で亡くなったのが32年前の5日前だったことも、
意識のどこかにあったのかもしれない。
私は、性格ー特に欠点ーが父に似ているために、父が苦手で、
たぶん向こうもそうだったと思う。
だから、私たちは決して親密ではなかった。
それでも亡くなってみると、思い出すのは父の立派だったところ、
自分があれこれ楽しむことよりも、人助けを喜んでいたことなど、
長所と言えるところだ。
今年は戦後70年と言われるたびに、
父があまり話そうとしなかった戦争中のことを、一度聞いておきたいと思っていたのだが
それは叶わなかったのがひとつ、心残りだけれど、
いまは、先に逝った母に、
「え~?もう来たの?」
と邪険にされていなければいい、と思うのだ。
My father somehow chose my birthday last week to die.
Maybe it's for me to remember the day. (In Japan, the day of death is more important to remember than one's birthday.)
He had heart problems for many years. He suffered pneumonia over the weekend, and apparently his heart gave in just after my sister took him to bathroom in the morning.
I was never close to my father, largely because I inherited his shortcomings, and I hate to find them everytime I saw him.
In order not to disrupt my husband's daily routine, I only attended the vigil and missed the funeral ceremony. Still, I could spend more qualify time with my family over last week than when my mother passed away last October.
My father just finished dividing what my mother left among us, so he must have felt relieved as he went to her side even though he didn't finish taking care of what he was going to leave behind. We only hope that my mother is not too surprised at his joining her so soon.
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