気が付けば年が明けて半月余り。
今月は26日にオケのコンサートがあるので、とにかく体調管理に万全を期すべく(実力は俄かにどうなるものでもないので)休養を取る、人込みには出ない、人と接触するミロンガにはもちろん行かない、で過ごしている。そういう時に限って楽しそうな企画が次々とSNS上に紹介されていて、ちょっと悔しい。
そして気が付けば、2020年ということは21世紀が五分の一過ぎた、ということだ。
20世紀後半に子どもから大人へと生きた身としては、あのころ「21世紀」という言葉が持っていた希望と期待とは、現実はかなり違っていると感じて悲しい。
よく言われるように20世紀は「戦争の世紀」だった。二つの世界大戦がそれを象徴している。東アジア地域ではその後も朝鮮戦争やベトナム戦争が繰り広げられ、21世紀は戦争のない世紀に、との思いを多くの人が持った。
しかしどうだろう。21世紀を五分の一過ぎた世界は地域間、経済圏間、世代間といったさまざまな局面での「紛争」に満ち満ちているのではないか。地域紛争は、その地域の人々にとってはまさに戦争だ。自分たちの頭の上に銃弾が降ってこないからと言っても、食物や生活の安全が密かに脅かされる結果をもたらす経済圏同士のせめぎあいも、やはり戦争なのだ。
そうなることは、わかっていたのだ。
「これが時代の分かれ目とでも言える契機になるのだろうな」と感じたことがあった。
1989年の年末、米ソ マルタ会談。
この時、夜帰宅したらテレビにパパ・ブッシュとゴルビーが並んで笑顔で会見するようすが映っていて本当にびっくりした。それまでの米ソサミットでは両首脳が一緒に会見するなどありえなかったからだ。
そしてこの時「冷戦の終結」が宣言され、ブッシュはこれからは「New World Order」だ、と語った。
New World Order 新しい世界秩序。
一体それは何なのか。おそらくアメリカは冷戦の終結とは(アメリカ的)民主主義が社会主義に勝利したことだと思いながらも、それは大っぴらに言いたいことではなく、そのために具体的にNew World Orderが何なのかを示すことなく、時が流れていった。すでに始まっていた東欧の「民主化」を見ればわかるように、彼らは別に「アメリカ化」したわけではなかった。しかし彼らは欧州の一部でありその価値観を共有していたから、アメリカの楽観が問題になることはあまりなかったと思う。
問題は、冷戦構造の重しが取れたことで、それまで抑えられていた対立や鬱屈が噴出することが予想された中東やアジアだった。新しい秩序とは何かが提示されない中で、政権の転覆、地域紛争が相次ぎ、アメリカを標的とした同時多発テロも起きた。このテロに対するアメリカの答えは「軍隊の派遣」だった。武力による紛争の解決、それは日本が憲法で永久に放棄すると謳っていることだが、日本はそのことを強く世界に訴えることをせず、アメリカの腰巾着のような振る舞いを今日まで続けている。故中村哲医師のようなごく限られた人々が、命がけで自分にできることをしてくれているだけだ。
21世紀、のちに何の世紀と言われるようになるか、私はそれを見届けることは、ない。
その先の世界が存在するのかどうかがそもそも危ういとは感じるけれど。
世界の秩序、などとマクロな話を書いてしまったけれど、もっと身近なところでも暮らしや社会の崩壊は進んでいる。ネット上で見ず知らずの相手にいきなり侮蔑の言葉を投げつける人々、意味もなくこまごまと定められた学校や職場のルール、気候変動に対処しきれない人間の知恵、などを思うと、かつて「Information Super Highway」を提唱し、映画「不都合な真実」を作ったアル・ゴアというのは、なかなか先見の明があったのだな、と思う。そういう人を指導者にできないで、今現在の自己防衛ばかり考えていては世の中よくなるはずがない。さて、どうするか。
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