教会の友人Y子さんのお連れ合いが亡くなられたのが一週間前。
Y子さんは、音楽家であり青年海外協力隊でコスタリカにいたことがあったりして、南米つながりもあって夫とも仲が良く、夫が病気になっても私に仕事を続けてほしいから手伝う、と言ってくれて、毎週一回夜ヘルパーが帰った後私が帰宅するまでの時間、うちに来てくれていた。Horacio Ferrer のラジオ番組 Flor de Tangos y Poemas を聞きとって訳したものを夫に読み聞かせてくれるなど、夫もY子さんの訪問を楽しみにしていた。その間、お連れ合いが難病の多発性硬化症と診断され、それでも予後が長い病気だからまだ大丈夫、とずっと訪問を続けてくれて、本当にありがたかった。
連休前に誤嚥性肺炎になられて、誤嚥が心配なので胃瘻を作るために来週入院する、というメールを受け取ったばかりのところに亡くなられたと聞いて、本当にびっくりした。これからは私が力になってあげる番だと思っていたのになにもできなかったことを後悔した。
週明けにY子さんを弔問して夜帰宅すると、アメリカの母教会から教会員のSが亡くなったとメールが来た。Sは私より4~5歳若い。就寝中に亡くなったとのことで誰もがただただ驚いている。Sは教会の中心的存在で、誰もが彼を一番の友人と思っても不思議ではない、そんな存在だった。私自身は、アメリカを離れて10年くらいは毎年帰っていたから、その時はいっしょに活動したり聖歌隊で歌ったりしたけれど、もう久しく教会を訪れていないしそういう意味では「身近な人」とは言えないのかもしれないけれど、そんな私でもいつでも「やあ、元気」とハグできると感じられる人だった。教会にとってあまりの損失に神様はいったい何を考えているのだろうと思ってしまった。
SのためのMemorial Serviceの様子をFBのライブ配信で聞いたのが昨夜。
そしてきょう入ってきたのが、先の投稿で書いた齋藤徹さんの訃報。
夫が亡くなった時もすぐには泣けなかった私も、今度ばかりは涙が溢れて止まらなかった。残り時間が少ないことはわかっていたけれど、先月末のライブの後「またね」と握手して別れた。「また」とか「今度」ってのはないんだと思わないとね、なんて話もしたけど、それでもあと10日もすればまたファンダンゴスとのライブで会える、と思っていたし、来月の私の誕生日にはエアジンでの予定が組まれていたからそれには行かなくちゃね、と思っていたのに、もっともっと聞きたかったのに...
徹さんとは、夫と出会っていなければ一生接点はなかったのだろうと思う。
夫はジャズのライブハウスに足を運んでミュージシャンたちと懇意になる中で、フリージャズでちょっと行き詰まったりしてる人たちをどんどんタンゴに誘い、徹さんには「楽団がブエノスアイレスに行くのだけどベーシストが逃げちゃったから徹さん行かない?」と誘い、徹さんはかねてから関心のあったタンゴの世界にどっぷり浸かることになった。(のちにピアソラ楽団に入りたいと真剣に願い、アルバムを作ってピアソラに届けたものの、ピアソラが他界したため共演は実現しなかった。)
私たちが結婚するとき、披露宴で夫の参加していた楽団で演奏してもらおうと思ったのだけど、スケジュールの都合がつかなかったので、徹さんにベースを弾いてもらって私がピアノを弾いて一曲やろう、ということにして、徹さんに譜面を書いてもらい、Oblivion を演奏した。本番一週間前くらいに徹さんの家で行った数時間のリハーサルは、私の音楽人生(←大げさ)でとても意義深い時間になった。音楽に技術は重要だけれど、音楽が音楽になるのはそれとは別のところにあること、いま、ここで、この出会いだからできることがあること、を教わった。その後の10年くらい、徹さんのライブには二人でかなり頻繁に足を運んだのだが、この時期がちょうど徹さんの世界が出来上がっていく時期だった気がする。それを目撃できたことはとても貴重な、そして幸せな体験だった。徹さんの世界がやがて「いま、ここ、わたし」に集約していったのは偶然ではなかったと思う。
徹さんの5月5日のライブに向けてのFB投稿にあったことば。
「この場のため、人のため、わたしのため、幸せのため、愛のため。他に何が必要だろう?何のために生きるかのすべての解答を含めて臨みたいです。
もう会えないことは悲しいけれど、徹さんがくれた沢山の音や感動は確かに私たちの中にあって、これからも一緒に生きる力になってくれることがなによりの慰めだと思う。
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