私は「あとは暑くなるだけか」と思って、むしろ陰鬱な気分になってしまう。
そこへ持ってきて熊本地震である。
直下であれだけの強震があるとこういうことになる、というのを見せられれば、
自分のいるところで起きたらどういうことが起こりうるか、どう備えるか、ということを考えるので、それもまたさらに気分を沈鬱にしていった。
いや、そのことよりも、そういうふうに考えないで、脳天気にしている人がいたり、
今回の被災地の人たちが「地震なんか来ないと思っていた」と言っていて、
阪神淡路、中越、東日本の経験から何も学んでいなかったのを耳にしたりしたことのほうが気分を落ち込ませるのであった。
熊本県内各自治体も、大雨や台風による土砂災害の警戒は怠りなく、
さらには南海トラフで影響を受けるであろう宮崎県への支援体制は整えていたのに、
自分のところで大地震が起きた場合の備えは遅れていたとか。
残念なことだ。
まあ、国の対応、各地自治体からの協力、自衛隊、警察、消防の連携などは
過去の経験から学んで、ずいぶん効率よくなっていたので、それは心強いことだった。
この国に住んでいる以上地震はつきもの、過去の例から学んで備えをして、
被災した人たちに「あなたたちの苦労は無駄にしない」ということが大事だろうと思うのだ。
熊本市内のある動物病院は、ペットと一緒に避難する人々を受け入れ、
一時は200人以上が避難した、という報道があった。
ここの院長は、東日本大震災の際福島に入り、避難者とペットの問題を見て、
自分の病院を耐震構造にし、いざという時に飼い主とペットを受け入れることにしたのだそうだ。
行政でさえ、国が東日本以降指導していた地震対策を取れていなかった中で、
こういう人もちゃんといた、というニュースにホッとして、嬉しかった。
まだ九州新幹線も止まったままだった頃、
山口の大学で日本語学を教えている義従姉が、研究で横浜に来たついでに寄ってくれた。
昨年度卒論指導をした学生の中にスペイン人がいて、
その人は独学で日本語能力検定1級を取ってしまう実力の持ち主なのだが、
いざ論文となったら論理の流れがつかめない日本語になってしまっていて、
卒論を読むために義従姉は有給を3日とった、という話だった。
あんなふうになるのは、スペイン語の特性が背景にあるのではないか、
日本語と比べてどういうところが違うのか、と聞かれて、
私の限られた知識ではあるけれど、gustar型の動詞などいくつか思い当たることを上げてみた。しばし言語文化論を交わしながらつくづく思ったのは、
私はこういう話題、言語と思考の異文化比較、がやっぱり大好きだ、ということだ。
コミュニケーション学でvalue orientationという概念に属する領域なのだが、
学生の頃この概念に行きあたった時のワクワク感が久しぶりに蘇ったひとときだった。
職場の近くの道路脇に季節の花や木が植えられている場所があって今はバラだ。
先日通りがかったら、咲きはじめのせいか良い香りが漂ってきて、
ああそうだ、この時期はバラだよね、というわけで、
数日後、新山下に買い物に行くついでに港の見える丘公園に寄ってみた。
ここはバラに溢れてさぞかし芳しい香りが満ちているだろう、と期待していたのだが、
あれれ?
以前バラばかりだったエリアが、こんな感じ。
どうやらこの春から園内整備中だそうで、ほかのセクションもバラは少なめ。
僅かに香る種類もあったので、それをクンクンして満足することにして、来年に期待。
帰り道、みなとみらい地区の分離帯の草がなんだか可愛らしくなびいていた。